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【いざ鎌倉:人物伝】北条義時

今回は北条義時について。
来年のNHK大河ドラマの主人公ですね。

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これまでの人物伝は本編で死亡した時点でコラムとして書いておりましたので、源頼朝を例外として歴史の敗者ばかりなのですが、義時は勝者と言ってよいでしょう。
承久の合戦で後鳥羽院の官軍を退け、幕府と朝廷の関係も変化する中、新たな政治を整える中で亡くなりました。

本編でも後半は出番の多かった義時ですが、あらためて生涯を振り返りつつ、補足していこうと思います。

前回の記事。

本編最終記事。

期待の若手として

北条義時は、長寛元(1163)年に北条時政の次男として生まれました。
兄に宗時、姉に政子がいます。
若き頃の義時は幕府の史書『吾妻鑑』において「北条義時」ではなく、「江間四郎」、「江間小四郎」として登場します。
このことから義時が分家・江間家の当主として扱われていたことが想定されます。

治承4(1180)年に父・兄とともに源頼朝の挙兵に参加。
同年8月の平家との石橋山の戦いでの敗戦における退却時に兄・宗時が戦死します。
このことは義時の運命を大きく変えることになりました。

翌年には頼朝の寝所警護を任された11人の1人に選ばれています。
義時は頼朝が期待する若手御家人の1人でした。

寿永元(1182)年、父・時政が頼朝とトラブルとなり伊豆に退去した際、義時は父には従わず、頼朝に大いに信頼されています。
その後、平家との戦いで西国、奥州藤原氏との戦いで奥州にも出陣しました。

寿永2(1183)年に側室との間に長男・泰時を設けていましたが、建久3(1192)に頼朝の仲介によって比企氏の姫の前を正室に迎えました。
この正室の子には次男・朝時、三男・重時がいます。
朝時は名越家の祖として兄・泰時に対抗心を燃やし主要な役職に就くことはありませんでしたが、重時は六波羅探題、連署を歴任し幕府の重責を担いました。

描きづらい義時像

建久3(1192)年以降については本編記事で書いておりますので、改めて詳細に解説しません。
ただ、この時代について色々勉強し、このnoteの連載に一区切りをつけた今でも北条義時という人物が何を考え、何を理想とし、何を目指したのかというのは非常に見えづらい人物であるなぁと思います。
想像、妄想の膨らむ余地が大きい人物であり、だからこそ大河ドラマの主人公としてオリジナルな話を描きやすいという面はあるでしょうね。

特に甥である将軍実朝についての感情はよくわかりません。心から忠誠を誓っていたという風でもなければ、傀儡として利用価値があるという感じでもない。
私は実朝暗殺の黒幕が義時とは考えていませんので、排除するべき対象と考えていたわけでもないと思っています。
叔父として立派な将軍になるよう導くべき対象というのが妥当に思えますが、導くエピソードもそれほどないんですよね。結局のところよくわかりません。

人間・北条義時

ただ、そんなよくわからない人物である北条義時の人間性が姿を現す印象的な場面が3つあります。

1つは父・時政の命令で畠山重忠を討った時
重忠は冤罪であると強く訴え、父を失局させるきっかけとなりました。

2つ目は和田合戦の序幕となる和田義盛への挑発
陰湿な手段で確実に義盛を挙兵に追い込む手法は、父譲りのようでもあり、性格が出ているようにも思います。義時が能動的に政変を仕掛ける数少ない例でもあります。

3つ目は承久合戦後の勝利宣言ですね。
改めて再掲しますが、義時が喜びを爆発させるという非常に珍しい場面。
会心の勝利であったことが想像できます。

「今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル」(=今は自分に思うことは何もない。義時の果報は帝王の果報に勝っていたのだ。前世での善行が1つ足りなかったがために、武士という低い身分に生まれたにすぎなかったのだ)

「得宗」とは何か

北条時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の鎌倉北条氏総領9代を「得宗」と呼びます。
鎌倉北条氏の祖が時政と認識されていたことは事実です。ただ、子の政子・義時によって失脚に追い込まれた時政より、後鳥羽院に勝利し、幕府を盤石なものとした2代義時が子孫たちには高く評価されます。
時頼の執権就任を批判的に語った名越光時の言葉、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり」はその象徴的な言葉でしょう。時政ではなく、義時との血縁の近さこそが正統性のアピールとなったのです。
「得宗」の語源には様々な説がありますが、義時に関連する言葉であるということは間違いないと考えられています。

有力なものは「得宗」とは「徳崇」の当て字であり、禅宗の法名ではないかというもの。
義時の本来の法名は浄土宗系の「観海」ですが、歴代得宗で初めて禅宗に帰依した北条時頼が追号として義時に贈ったのではないかと言われます。
その場合、父からではなく兄からの家督継承、そして名越家という北条一門内の強力なライバルの存在から政治的地位が脆弱であった時頼が、自身の法名として「道崇」を選ぶ際に合わせて義時に「徳崇」を追号し、義時との繋がりによる自身の正統性を主張したと考えられます。

頼朝の隣に眠る

死した義時の遺骨は源頼朝が葬られた法華堂の東隣に埋葬され、「新法華堂」と称される墳墓堂が築かれました。
幕府の創始者である将軍とその臣下が並んで埋葬されるというのは通常ありえないことですが、義時はそれに値するだけの功績ある人物であると北条氏は位置づけ、他の一族の御家人たちの納得も得られる存在であったと言えるでしょう。
後鳥羽院の官軍との戦いを勝利に導いたことで北条義時は伝説的存在となり、その後継者たちも「得宗」として御家人の中で別格的存在となっていくのです。
義時の人生は、北条氏の分家・江間家を嫡流・得宗家に進化させる道程であったと言えましょう。

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