【いざ鎌倉(32)】陳和卿、来訪
前回は建保2(1214)年の鎌倉幕府について書きました。
和田合戦の戦後処理に加え、大地震、旱魃への対応、園城寺の再建など幕府は度重なる財政支出に見舞われることになりました。
将軍実朝は北条義時と大江広元、さらに臨済宗の開祖・栄西にも助けられ、それぞれの問題に対処します。
今回は建保3(1215)年正月の話から。
北条時政の死
建保3(1215)年1月6日、政子・義時との親子間の政争で敗れ、隠居していた北条時政が亡くなりました。享年78歳。鎌倉を退いてから約7年半が経過していました。
幕府創始者・源頼朝の舅にして3代将軍実朝擁立の立役者でありながら、最後は幕政とは無縁の立場となり、波乱の生涯を終えました。
父を追い落とした北条義時ですが、時政が築いた伊豆の願成就院に父の供養のための南新御堂を建立しています。
時政以前の北条氏の来歴についてはよくわかっておらず、兄弟や従兄弟などの一族は史料で確認できません。鎌倉幕府創設以後、嫡流の得宗家だけでなく、名越家、金沢家、大仏家、赤橋家など多くの分家から幕府の役職を務める有力な武士が生まれますが、これは全て時政の子孫ということになります。
公武関係の再構築
7月6日、将軍御台所の兄・坊門忠信が「仙洞歌合」一巻を実朝に献上してきました。これは「内々の勅定」、つまりは後鳥羽院直々の指示でした。
前年には飛鳥井雅経が個人的に「仙洞秋十首歌合」を書写して実朝に献上しており、「和歌」をツールとした後鳥羽院と実朝の接近が再び始まったと言えます。
和田合戦による混乱で幕府と実朝に失望した後鳥羽院でしたが、2年が経過し、幕府に歩み寄った形です。
従来、京と鎌倉の和歌についてのやり取りは藤原定家が間に立つことが多かったのですが、何故かこの時、定家を仲介していません。
この理由をどう考えるべきか明確にはわかりませんが、その点も含めて「仕切り直し」という感覚が後鳥羽院側にはあるようにも思います。
後鳥羽院の幕府、実朝への姿勢の変化が明確になるのは翌建保4(1216)年のこと。
6月20日に実朝は権中納言に任じられ、7月20日には左近衛中将を兼務することになります。
3年4か月ぶりの実朝の官位昇進は公武関係が和田合戦以前に回帰し、後鳥羽院の不信感は払拭されたと考えて良いでしょう。
政所別当9人制という行政改革
朝廷と幕府の公武関係が改善される中、幕府は行政改革を行い、幕府の政所の機能を強化します。
これまで幕府の財政・政務を司り、文書を発給する政所の別当(長官)は下記のような体制でした。
まず固定メンバーが3人。
北条義時(執権)
北条時房(義時の弟)
大江親広(大江広元の息子)
この3名に下記の文官から2名が加わります。
中原師俊
中原仲業
二階堂行光
従来は上記のような別当5人制でした。
実朝は建保4(1216)年、これを下記の9人制へと改めます。
北条義時
北条時房
大江親広
中原師俊
二階堂行光
(再任)大江広元(初代別当)
(新任)源頼茂(摂津源氏・院近臣)
(新任)大内惟信(信濃源氏・院近臣)
(新任)源仲章(宇多源氏・侍読・院近臣)
この「9人制」は政所機能の強化を狙った行政改革ですが、2つの視点で見ることができます。
まずは、新任の3名が清和源氏一門の頼茂、惟信と侍読(家庭教師)の仲章という将軍実朝に近い人材であるということ。執権義時の権力よりも将軍実朝の権威を重視する3名と言えます。
次に、この3名は院近臣として後鳥羽院に仕える立場でもあるということ。政所の権威を向上させるとともに、後鳥羽院からの歩み寄りに実朝が応える人選となっています。
こうして幕府政所は、将軍実朝の意見が反映しやすくなるとともに、後鳥羽院との関係を強化する新体制となりました。
陳和卿、来訪
建保4(1216)年6月15日、将軍実朝は中国・宋出身の工人・陳和卿と面会します。
陳和卿は、平家が焼き討ちした東大寺大仏の再建に尽力した技術者です。
建久6(1195)年、東大寺大仏殿再建供養に出席した源頼朝が面会を求めましたが、陳和卿は「多くの人命を奪った罪深い人間とは会わない」と拒否した因縁がありました。
それから約20年が経過し、今度は陳和卿の側が頼朝の息子・実朝との面会を望み、鎌倉を訪れます。
実朝との面会の場で陳和卿は突如、涙を流し、「あなたの前世は宋の医王山(阿育王山阿育王寺)の長老であり、私はその門弟だった」と語ります。
実朝はこれに対し、「5年前に夢の中で高僧から同じことを告げられた」と応じました。
誰にも語ったことのない自分が見た夢の内容と陳和卿の発言が一致したことで、実朝は陳和卿を信頼するようになったといいます。
阿育王寺
中華五山の一つ。中国浙江省寧波市。
渡宋計画は真実か?
陳和卿との面会から半年後、実朝は医王山参詣のために渡宋を決断し、御家人たちの反対を押し切って陳和卿に巨大な唐船の建造を命じたと『吾妻鑑』は記します。
従来、この件は北条氏の傀儡でしかなかった実朝が政務を放棄し、無謀な渡宋を計画したと理解されてきましたが、これまで見てきたように源実朝という人は決して傀儡ではなく、政務に対して非常に意欲的です。単に父・源頼朝とはタイプの違った将軍であったと言うに過ぎません。
これも『吾妻鑑』は「源氏将軍が無能だから滅亡して北条氏が政治を取り仕切るようになりました」という北条氏中心の史観で記述されていると理解したほうが良いように思います。
実朝の狙いは自身が渡宋することではなく、鎌倉を拠点とした幕府直轄の日宋貿易の確立、あるいは医王山への何らかの奉納、寄進を行い、経典や仏舎利を持ち帰る程度の話だったと考えた方が妥当かなという気はします。
日宋貿易が平家によって西国で盛んに行われたことは言うまでもなく、医王山には平重盛が砂金、重源が木材を寄進した過去がありますから、この線なら現実的です。
そもそも実朝は上洛経験がなく、海を渡るぐらいなら京へ上って後鳥羽院に拝謁することを優先するような気がします。
とにかく、どういう狙いであったか巨大な唐船の建造は陳和卿によって進められます。
しかし、建保5(1217)年4月17日、唐船は完成し、実朝らが見守る中、進水式が行われますが、船は浮かばず、建造は失敗に終わりました。
遠浅の鎌倉の海は巨大な船の航行には不適でした。
責を負うべきは技術者である陳和卿ですが、プロジェクトの失敗は実朝の失政を印象付けるものとなってしまいました。
そして、実朝にとって希望の船となるはずだった大船は由比ガ浦に沈み、朽ちていくその姿は皮肉にも実朝政権の未来を暗示するものとなるのでした。
次回予告
2代将軍源頼家の遺児・公暁。
5歳にして父を失った少年は政治から、鎌倉から離れ、僧としての道を歩んでいた。
祖母・政子によって突如鎌倉へ呼び戻された公暁は、鶴岡八幡宮別当を継承する。
その頃、幕府では子のいない将軍実朝の後継者問題が浮上していた。
鎌倉へと戻った公暁はひたすらに神仏に祈り、願う。
その目的を知る者はまだ誰もいなかった。
次回、「公暁、鎌倉へ帰る」
この次も、サービスサービスぅ!
余談
大河ドラマ「鎌倉殿の13人の」時代考証を務める呉座勇一氏がtwitterでの発言を理由に降板するという事件がありました。
もしこれで1人補充されるなら京都文化博物館学芸員の長村祥知氏を個人的には推したいです。
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