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【いざ鎌倉:コラム】その後の鎌倉幕府

本編は前回で最終回としましたが、補足のためのコラムと人物伝をあと数回更新する予定です。
いつもお読みの方はもう少しだけお付き合いください。

今回は「その後の鎌倉幕府」。
本編最終回では深く触れませんでしたので、承久合戦に勝利した後の鎌倉幕府について解説しておこうと思います。

本編最終回は下記をどうぞ。

ポスト北条義時をめぐる政争

承久の戦から3年後、元仁元(1224)年6月13日、執権・北条義時死去
義時はこの頃体調を崩していたようですが、決して重篤なものではなく、前日になって容体が急激に悪化し、そのまま亡くなりました。
体調悪化は猛暑によるものとも言われます。

義時の長男は、承久の戦で東海道軍を指揮した北条泰時
しかし、泰時の母は身分が低い側室であり、義時後継者としての地位は決して安泰ではありませんでした。
ここに後継者争いの火種がありました。

義時が亡くなった時、泰時は叔父・時房とともに六波羅探題として在京を続けていました。
六波羅に義時の訃報が伝わったのは6月16日のこと。
翌17日に京を出発した泰時ですが、鎌倉に入ったのは26日。
緊急事態でありながら、京から鎌倉を10日かけて戻るというのはかなりゆっくりしたペースです。
一度、伊豆に入った泰時はそこに逗留し、時房を鎌倉に先行させ、情勢を調べさせてから鎌倉に入ったと伝わります。
この泰時の慎重な行動から、義時死後の鎌倉の政情は義時後継者問題により、不穏であったと考えられています。

泰時の対抗馬

泰時以外の有力な後継者候補が義時四男の北条政村でした。
政村は後室・伊賀の方の子であり、伊賀の方とその兄・伊賀光宗を中心とする勢力が執権就任を望んでいました。
また、伊賀氏勢力は4代将軍についても摂関家から下ってきた三寅(九条頼経)ではなく、義時の娘婿・一条実雅を推していました。
なお、後鳥羽院の官軍と戦って戦死した京都守護・伊賀光季はこの伊賀の方・光宗の兄です。

この伊賀氏とは別の動きとして、義時次男で承久合戦では北陸道軍を指揮した名越朝時も独自に義時の四十九日法要を行うなど、後継者としての地位をアピールしました。
朝時の母は、北条氏と比企氏の対立によって離縁となった比企朝宗の娘です。
比企氏は源頼朝の乳母を務めた特別な家であり、朝時には「我こそが北条氏本流」との思いが強く、兄・泰時との仲も良くなかったと伝わります。

承久合戦という最大の危機を乗り切った幕府でしたが、義時の死により、その要である北条氏の内部対立が露わになりつつありました。

連署の成立

この北条一族の内部対立に「尼将軍」北条政子が介入します。
政子は鎌倉に戻った北条泰時・時房に「軍営御後見」を命じました。一般的にはこれが泰時の執権、時房の連署への就任と理解されます。
「連署」はその名のとおり、文書に執権と連名で署名する役職であり、執権の補佐役です。
ただ、発足当時は執権と連署に上下関係は認められず、複数執権制と理解すべきとの見解もあります。

泰時を執権という幕府の職に任命することは、幕府の棟梁である鎌倉殿を代行する政子に可能な権限でしたが、頼朝に嫁いで北条家を出た政子には本来、実家の北条氏の家督に口出しできる権限はありません。執権任命はポスト義時の決定代にはなりませんでした。
義時邸には後室・伊賀の方が継続して居住しており、泰時が正式に家督を継承するには、伊賀の方より義時の文書・財産の譲与を受ける必要がありました。

伊賀氏の変

政子と伊賀氏、それぞれの勢力が政局の主導権を握るために取り込みを進めたのが、幕府の重鎮・三浦義村でした。
和田合戦承久合戦も三浦義村の去就が勝敗の大きなポイントとなりました。幕府内の義村の存在感は北条氏を除けば、頭一つ以上飛びぬけたものでした。

7月になり伊賀氏と三浦義村の接近が噂されるようになると、7月17日、政子は義村邸に出向き、義村との直接会談に臨みます。この場で事態収拾のための対応が話し合われました。
閏7月1日、政子は三寅を伴った上で臨時に幕府宿老たちを泰時邸に召集し、その場で改めて三浦義村に忠誠を誓わせました。伊賀氏と三浦氏の連携を阻止した政子は、一気に伊賀氏の謀叛による処分を進め、伊賀の方、伊賀光宗、一条実雅を鎌倉から追放しました。
この一連の政争を伊賀氏の変と言います。

ただ、伊賀光宗は政子の死後に罪を許され、所領を回復していることから北条政村を執権とする計画はそもそも無かった、謀反は冤罪であったという見方もあります。
その場合、将軍(実朝)の生母、執権(義時)の姉という立場の双方を失い、政治的地位の低下を免れない政子が権力を維持するために仕組んだ陰謀であったということになります。
いずれにしろ、義時から泰時への家督継承は決して円滑に進んだものではありませんでした。

なお、北条政村も罪を問われず、これより40年後の文永元(1264)年に60歳にして第7代執権に就任しています。

4代将軍・九条頼経

4代将軍・九条頼経

政子が亡くなった年の年末である嘉禄元(1225)年12月、3代将軍源実朝死後に将軍予定者として鎌倉に下向し、政子が後見していた三寅は元服し、九条頼経と名乗ります。翌月の嘉禄2(1226)年1月27日、頼経は朝廷より正式に征夷大将軍に任命されました。これにより源実朝暗殺以降の将軍不在がようやく解消されました。
寛喜2(1230)年、頼経は2代将軍頼家の娘である竹御所を正室に迎えます。幕府は女系で源頼朝の血を将軍家に残そうと考えたのでしょう。しかし、竹御所は男児を死産し、自身もその出産で命を落とします。頼朝・政子の血は完全に絶えてしまいました。

源氏将軍が滅亡し、幕府の政治は北条氏が主導するようになり、4代以降の将軍には権力がなかったと理解されがちですが、成人した頼経は将軍としての自覚を深め、御家人たちの評定の決定に異を唱えるなど政治に意欲を示しました。
頼朝が始め、実朝が定着させた将軍の一大行事である二所詣も嘉禎3(1237)年に復活させています。

また、実家である九条家によって有能な知識人が頼経を支えるために京から鎌倉に派遣されてきました。このことは幕府のレベルを政治、文化の両面で底上げすることに繋がりました。

将軍派vs執権派

仁治3(1242)年6月、執権・北条泰時が亡くなります。
嫡男・時氏、次男・時実は父より先に他界しており、4代執権には泰時嫡孫の北条経時が就任しました。この時、北条家嫡流の得宗家は大きな危機を迎えます。
幕府創設より初めて年長の執権(得宗家当主)が年少の将軍を支えるという構図が崩れ、将軍頼経が25歳、執権経時が19歳という逆転現象が生じました。年齢でも政治経験でも将軍が上回ることとなり、頼経は一層政治の意欲を強め、それを反得宗家の御家人たちが支えます。
その中心の一人が名越朝時の嫡男・名越光時です。光時は父の「名越家こそが北条氏本流」という意志を受け継ぎ、得宗家に対抗心を燃やしました。
そして、かつては北条氏と連携することで幕政に重きを成した三浦氏も世代交代し、将軍頼経に接近していました。
こうして幕府は将軍派と執権派が水面下で対立する構図となっていきました。

宮騒動

寛元2(1244)年、九条頼経が将軍職を退き、5代将軍には頼経嫡男の九条頼嗣が就任しました。執権派が将軍の勢力を削減することを狙った将軍交代と考えられますが、頼経は「大殿」として頼嗣の政治を後見し、政治的影響力を保ちました。これにより、院・天皇と同じ構図が将軍にも生じることとなり、政治的緊張が解消されることもありませんでした。

寛元4(1246)年閏4月、内部対立の心労がたたったのか、執権・経時はわずか23歳で亡くなります。5代執権には経時の弟である北条時頼が就任しました。

北条時頼(建長寺蔵)

将軍派の名越光時は時頼の執権就任に不満であり、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり」と語りました。執権就任の正統性として光時が2代執権義時との血の濃さをアピールした事実は、承久合戦を勝ち抜いた義時が伝説視されていたことを物語ります。

5月、名越光時謀反の噂が鎌倉に流れると、執権・時頼は戒厳令を敷いて軍勢を動員し、前将軍・頼経を幽閉、光時を流罪に追い込みました。
執権交代の政情不安を時頼は力業の先手必勝で打開しました。
頼経は7月に京へ送還されました。
一連の政争を宮騒動と言います。

宝治合戦

三浦義村の四男・三浦光村は京に送還される九条頼経に「必ずもう一度鎌倉にお迎えします」と涙ながらに語りました。
九条頼経と名越光時は政治の舞台から退場しましたが、頼経を支持する勢力は存続し、幕府の分断は続きます。
ただ、執権・北条時頼と三浦氏総領の三浦泰村は対話を続けており、決定的な対立を回避する動きが続けられました。泰村は弟の光村とは異なって、将軍派とは距離を置いていました。
この動きに対し、執権派で三浦氏の排除を強く主張したのが時頼の外祖父である安達景盛でした。義時・泰時の時代から世代交代し、北条得宗家と強く血縁で結びつく御家人は三浦氏から安達氏へと移り変わっていました。そして安達氏は、執権派と将軍派の対立を利用し、三浦氏の御家人ナンバー2の地位を奪い取ることを狙いました。安達氏の動きを察知した三浦光村は兵を集め、合戦の準備を進めます。
時頼と泰村で対立解消が模索される中、宝治元(1247)年6月5日、安達氏による先制攻撃で和田合戦以来34年ぶりとなる鎌倉を舞台とした市街戦、宝治合戦の幕が上がりました。
執権・時頼もやむを得ず兵を三浦勢に差し向け、戦いは北条・安達方の勝利に終わりました。
三浦一族は源頼朝の廟所である法華堂に立て籠もり、約500名が自刃しました。

新たな鎌倉幕府へ

泰時死後、政治的影響力を一時的に低下させた得宗家でしたが、九条頼経を支える将軍派であった名越氏と三浦氏に勝利し、その力を取り戻しました。
以後、幕府は執権を中心とした合議制から、北条氏嫡流当主の得宗が強い力を振るう得宗専制政治へと進んでいきます。そして北条氏に次ぐ御家人ナンバー2の地位は宝治合戦で滅んだ三浦氏から安達氏へと移行しました。

また、4代将軍九条頼経に続き、5代将軍九条頼嗣も京へ送還され、建長5(1251)年4月1日、新たに6代将軍として鎌倉に下向してきたのは後嵯峨上皇の第一皇子である宗尊親王でした。つまり、後鳥羽院の曾孫が幕府の将軍となったのです。
かつて3代将軍源実朝が望んだ後鳥羽院の血を引く皇族将軍はこうして実現したのでした。

内部の対立を解消し、皇族将軍を迎えて安定した鎌倉幕府でしたが、海の向こうではモンゴル帝国がユーラシア大陸を席捲していました。
新たな幕府の脅威は海の向こうからやってくることになるわけですが、きりがありませんので、本項はここまで。

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