サドゥーと枕を並べてインドのビーチで寝た話
土曜日の夕方、仕事から帰ったぼくは、荷物をまとめてすぐにバス停へ向かった。
マハーバリプラム行きのバスは「588」番。乗り換えなしでちょうど1時間半。
学校や会社から家路に帰る時間帯で、バスはドアが閉まらないほど混んでいた。終点で降りるぼくは、バスの真ん中を陣取った。
西向きの窓から真っ赤な夕陽が見える。
すっかり日も暮れた夜の7時、マハーバリプラムに到着。
バスを降りてすぐに、カシンの携帯に電話をかけるも通話中だったので、とりあえずビーチの屋台まで歩いて行くことにした。
歩き始めて間も無く、折り返しの電話がかかってくる。
電話の相手はカシンではなく、女性の声だった。娘のスウィだろう。
「ハロー、キヨ。今どこにいるの?」
「さっきバススタンドに着いて、今はビーチまで歩いているところ」
「直接家に来ても大丈夫よ。誰か、迎えに行かせようか」
「いや、歩いて行くから大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
「OK。じゃあ、また後でね」
民家やゲストハウスが密集する暗い路地を歩いて、漁村まで行く。
カシンの家の近くまで行くと、ちょうどダナがどこかから帰ってきたところだった。
バイクから降りたダナに「ハロー」と声を掛ける。
ダナは寡黙な青年である。おそらく英語があまり得意ではないというのもあるのだろうが、家族間でも話をしているところはあまり見かけない。
そんなダナだが、ぼくが声をかけると、暗闇でもわかるくらいニカッと笑った。
ぼくの再訪を待ち望んでくれたみたいで嬉しかった。
家の中には、ウタとスウィの母娘がいた。ヴィッキーとカシンの兄弟はビーチで店番をしているのだろう。
「コーヒー飲む?」とスウィ。
「イエス、センキュー」とぼくが返すと、熱々のコーヒーとクッキーを出してくれた。
前回、初めて彼らの家にお邪魔したとき、スウィは隣の部屋にこもっていることが多かった。
婚約者がいるという話だったが、せいぜい二十歳くらいの年齢で、いきなり自宅にやってきた外国人に対して、あまり良い印象は持っていないのではないか、と心配していた。
しかし、今回の滞在中は彼女がリビングにいる時間が増え、家族の冗談に朗らかに笑っている姿も何回か見れたので安心した。シャイだっただけで、ちょっとずつ慣れてきたのかもしれない。
犬の兄弟も元気にしていた。
特に黒い犬が人懐こく、ぼくがベッドに腰掛けていると、足に体を擦り寄せたり、足の間に入り込んできたりする。
なぜか毛並みがとても良く、高級なコンディショナーでも使っているのではないかと思ってしまうほどである。
店じまいをしたヴィッキーとカシンが帰ってきたのは8時半頃だった。
ぼくはウタと一緒に、テレビで放映されている『バーフバリ』を見ていた。
「この映画は日本でも大人気なんだよ」とぼくが言うと、彼女は「これはタミルムービーよ」と誇らしげに言った。
実際はテルグ映画だったような気がするが、まあいいやとぼくは思った。
家族全員が揃ったところで、夕食になった。
時刻はもう9時になっているが、大量の米とカレーが床に並ぶ。
スパイスで味付けされた焼き魚もあった。
「これはキヨのために作ったんだよ」ということで、3匹もいただいた。
うっかり『バーフバリ』を見ていると、いつの間にか皿の上に白米が追加投入され、最後の方は無理やりお腹に詰め込んだ。
バーフバリを見ながら、ヴィッキーが劇中歌を口ずさんでいたが、とても美しい歌声だった。
さすが元ダンサーだけあって、音楽の才能に優れているのだろう。
ご飯を食べ終わると、もう寝る時間だ。
「さあ、ビーチに行こう」とヴィッキーが言った。
ぼくはブランケットがわりのルンギー(腰巻用の一枚布)をリュックから取り出した。
カシンが大量の毛布と枕を持って、ビーチまで先導した。
昼間のものだが、ビーチに抜ける道とビーチの写真。
ちょうど黒い犬が気張っているところを撮ってしまった。
漁船の間の砂浜に毛布をひいて、即席のベッドを作る。
ぼくはその上に寝転んだ。砂浜は柔らかく、まだ温かかった。
夜空に星は2つしか見えなかった。
隣に寝転んだヴィッキーが言った。
「昨日はたくさん見えたんだけどね。今日は曇っているな」
寝床が整ったところで、ウタがバナナを持ってやってきた。
砂浜や漁船に腰掛けながら、みんなでバナナを食べた。
夜のビーチは意外と賑やかだった。
ビーチサイドには開放的な雰囲気のシーフードレストランが立ち並んでいて、陽気な音楽と客たちの談笑が外に漏れていた。
「チェンナイから観光客が来て、週末の夜は賑やかになるんだ」とカシンが言った。
レストランのテラスからそのまま外に出てきた客や、夜のビーチを散歩する地元の人が通りかかる。
ぼくらの前をゆっくり横切った一人の初老の男性に、ヴィッキーたちは声をかけた。
ヴィッキーとカシンが「彼はjudge(裁判官)なんだ」とぼくに説明したが、お世辞にも官職に就いている人間には見えない。
彼らはちょっとだけ世間話をして、その男性はまたビーチを歩いて行った。
ぼくが「本当にjudgeなの?」とヴィッキーに問うと、「いや、本当は貝殻でペンダントを作って、ビーチの屋台で売ってるんだ。お店で座っている時の姿勢がとても良いから、ぼくらは彼のことをjudgeと呼んでる」と答えた。
初めてビーチで寝るということもあって、熟睡はできなかった。
レストランの音楽は真夜中まで響いていたし、ビーチも決して涼しいとは言えなかった。
海風は気持ち良いものの、気温自体が高いので、全身がじっとりと汗ばむ。
何か事件に巻き込まれるというのは考えにくいが、それでも外で寝るという経験はあまりないので、完全に気を休めるということはできない。
番犬の役目を買ってくれたのか、茶色の犬がぼくらのそばで寝ていたのだが、野良犬が通りかかる度に吠えるものだから、何度か起きてしまった。
彼からしたら、危険な外敵からぼくらの身を守ろうとしてくれたのかもしれないが。
寝たり、ちょっと目覚めたり、ということを繰り返しているうちに、いつの間にか空が明るくなっていた。相変わらず雲がうっすらと空を覆っていて、海から登る太陽は見ることができなかった。
夜明け前はさすがに気温も下がって、ルンギーを体にまとってちょうど良いくらいになっていた。
朝露のせいか、汗はもうかいていないはずなのに、シャツや枕が湿っていた。
ヴィッキーに促され、家に帰る。
一緒に寝ていたはずのカシンは、いつの間にかいなくなっていた。
時計を持っていなかったので時刻はよくわからなかったが、家の中ではまだ他の家族が寝ているようだった。
ヴィッキーは前庭に毛布をひいて、再び眠りについた。
ぼくもその横で眠ろうとしたのだが、ハエが多すぎて気になって寝れなかった。
寝るのを諦めたぼくは、玄関の横の階段を登って屋上に行き、プラスチック椅子に座ってぼーっとした。
茶色い犬がついてきて、ぼくの足元で丸くなって眠った。
下から名前を呼ばれて、ぼくは階段を降りていった。
コーヒーとクッキーで軽い朝食をとる。
寝る直前に大量の夕飯を食べたため、お腹は全く空いていなかった。
働き者のダナは、一足先にビーチの露店の準備に出掛けていた。
準備が整ったら、ぼくとヴィッキーもビーチに向かった。
漁村から露店があるビーチまで、歩いて10分くらいかかる。
直線距離だと近いのだが、間に世界遺産の寺院があるため、遠回りしていくことになるのだ。
露店は常に忙しいというわけではなかった。
暇な時間もあるが、集中して客がやってくる時もある。
たまに人手が足りない時もあって、そういう時はぼくも手伝った。
「10 rings で 50 rupees だよ」と言って輪っかを手渡し、お金を受け取る。
そして、「おお、すごいね!」とか「惜しい!」と適当に日本語で声をかける。
日本人が手伝う、珍しい屋台である。
射的の風船を膨らませるのも手伝ってみたが、これは意外と難しかった。
露店の日陰に座って、ボーッとビーチを眺めていたら、変なものが目に入った。
写真の左端に注目。
ビーチでは乗馬体験ができる。
だから馬はよく見かけるのだが、この形は馬じゃないよな、と近くに行ってみると…
ラクダだった。
ラクダ乗り体験もできるらしい。
背の高さは、馬の1.5倍くらいあった。
ダナのことを指差しながら、ヴィッキーが言った。
「こいつは明日、バイクの免許を取りに行くんだ」
「へー、明日テストを受けるの?」
「いや、テストはもう受かってて、明日は免許証を受け取りに行くだけだ」
ぼくは昨晩、ダナがバイクに乗るところを見ていた。
「まだ、免許は受け取ってないでしょ。でもバイクに乗って大丈夫なの?」
「まあ、テストに受かってるんだから、問題ないだろ」
とヴィッキーは言った。
「それよりさ」とヴィッキーはカシンを指差した。「カシンは免許を持ってないんだ」
「え!」
ぼくは驚いた。ぼくはカシンの運転するバイクの後ろに乗せてもらったことがある。無免許だったとは。
カシンは大きく笑いながら言った。
「ローカルピーポーは無免許でも no problem なんだ!ハハハッ!」
昼過ぎ、家に帰って昼食をいただく。
インドの庶民はカレーしか食べない、というのは事実であるようだ。
右上が魚のカレーで、左上はチキンカレー。
ご飯も炊き込みご飯のようで、スパイスの風味がする。
食後、ヴィッキーとカシンは屋台に戻って行ったが、ぼくには家でのんびりしなさいというので、言葉に甘えてダラダラすることにした。
インドのテレビがそういうものなのか、彼らがそういう契約をしているのかはわからないが、チャンネル数がとても多く、特に映画が多く放映されている。
さすがは映画大国である。
ぼくは最高にリラックスした姿勢で、スパイダーマンを見た。
映画が終わるとちょうどいい時間帯だったので、荷物をまとめて屋台に行った。
そこでちょっとだけ彼らと話をして、暗くなる前にチェンナイに帰った。
そして家に帰ったら、部屋の中は雨が降っていた。