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生み 巡り 在り

以前どこかで、「産まれる」というのは赤ちゃん側からみたら「場所が変わっただけ」という内容のものを読んだ。
お母さんが大変な思いをして出産をする、ということを一旦置いておいてみると、赤ちゃん目線で見れば、出産とは母親のお腹の中から外の世界(という表現が正しいのか分からないが)に場所が変わった事だ、というものだった。
それを読んだとき、面白い視点だなと思うと同時に、場所が変わっただけだとしたら、「いつ」 "産まれて" るんだろ? と思ってみたりもした。 産まれる って何だ?

確かに「出生日」以前もその子はお母さんのお腹の中に間違いなくいた訳であり、出産時に突如現れたわけではない。 十月十日かけてゆっくり「成長」という変化をずっとしていた。
お母さんのお腹の中の写真や画像でその成長は実際目にする事が出来る。



自分のこととして置き換えてみる。



私には誕生日というものがあり、その日に「生まれた」とされている。
でも、誕生日以前から母親の中にはいて、「生」としてはすでに在る。



さかのぼる。



母親のお腹の中でこの身体が形つくられる前、そのきっかけは精子と卵子だ。
じゃあ、精子と卵子は何か というと
父親と母親の食べたものが何らかの変化でなったものに他ならない。
今のこの「身体」の細胞と呼ばれる分類のひとつ。



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植物は種が成長して、やがて花や実が成りまた種をつくる。
種を撒いて水を与え、芽が出て育つというのは誰でも知っていることだ。
物凄い大木も、人が食べている野菜も、もとは一粒の種。
その種の中に全てが詰まっており、包まれている皮から出ることが出来たとき「芽」と呼ばれるものが現れ成長変化していき、やがてまた「種」となったものが別の場で同じサイクルを繰り返す。
その植物の成長サイクルの一部を、我々「人」が食べ物としていただき、それが身体をつくっていく。
食べ物でつくられているこの身体の中で、またヒトのもととなる細胞が日々つくりだされ・・と続いていく。

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植物は、言わずと知れた植物界のもの。
食べ物として口にしている肉は、動物界。
「界」。
「さかい」とも読む「界」を外したとき、それをくるんでいるものは「自然界」。
その自然界の中には、ヒトも含まれている。
自然界とは 天地万物が存在する範囲 とある。




天地万物。
太陽も 土も 水も 空気も 
動物も 植物も
そして ヒトも。


種から出来る植物をいただくことでヒトの身体を育むことが出来、身体は食べ物からできている。
ヒトの身体は自然サイクルの一部である。
かたちや特質が違うだけで、植物サイクルのそれと何が違うというのだろう。
なんなら、動植物がなければ、この身体は成り立たないというのに。
植物が太陽・土・水らで成長変化出来るように、ヒトの身体はその植物などをいただくことで成長変化できている というだけのことだ。



何が違うんだろう。
同じじゃないか。
なにが植物とヒトを分けてるんだろう。
この「自然」というサイクルの中で。


「身体」は食べ物でできている。



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さて、
いつ 生まれた のだろう。

いつから 生まれて いるのだろう。


身体が「食べ物」で出来ているならば
「私」は食べ物なのだろうか。
この身体が私のものであるならば
私は食べ物なのか。


食べ物でないのだとしたら
「私のもの」と思っているこの身体は
私なのだろうか。
私のものなのだろうか。



「私」は
いつ 生まれた のだろうか
生まれているのだろうか



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わたし とは
なんなのか


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外の世界は楽しいけれど
いったん立ち止まって
ひと呼吸しながら
ちょっと想い巡らせる


そんなトキもそろそろ必要なんじゃないかなと
思ってみたりする

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