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『風の歌を聴け』/村上春樹(ネタバレ含む)

とあるラジオで高橋源一郎が村上春樹のこの作品を読んで「作家をやめようと思った」という話をしたのをたまたま聞いていた。そのとき、ちょうど読み終えた直後くらいのタイミングだったので、すごく共感したのを覚えている。「こんなにも苦しくさせる作品はないし、同時に元気にさせる作品もない」と。それと同時に、文書を書く上で大きく影響を受けた作品でもある。それは書き方もそうだけど思想や書く意味としての影響といった意味で。
そもそも僕は、最初、村上春樹のことがそこまで好きな作家ではなかった。初めて出会ったのは高校生のときで、当時新刊だった『1Q84』を国語の先生に進められ読んだが、あまり好みではなかった。とりあえず性描写が多く、お酒とアフォリズム的で、文体はリズミカルだがやや冗長で全体的に軽い。結局なんとか読み終えたけど、頑張って読んだという気持ちが大きかった。そのあと『海辺のカフカ』も読み、同様の感想を抱いた。それからしばらくの間、手に取る作家のリストから外れていたが、映画の影響で読んだ『ノルウェイの森』はたまらなく面白く、そこから『グレート・ギャツビー』にハマり、アメリカ文学にべったりのめり込んだ記憶がある。

きっかけについて

きっかけとしては、先に本を書く上で、著名な作家の処女作品を読もうと思ったときに手にとったと記憶している。当時はその他に川上未映子、中村文則、綿矢りさ、村田沙耶香、など平成の純文学作家も読んでいた。
その中で特に村田沙耶香や川上未映子あたりに村上春樹的な文体の特徴があるなと思い、調べてみると川上未映子が村上春樹の文体を現代作家は参考にしているというインタビューを見つけた。
「なるほど、であれば読まなければ」と思い、手にとったのが「風の歌を聴け」だった。

ちなみに僕の大好きなバンドであるGRAPEVINEはよく文学作品をモチーフに曲を作っており、 真昼のストレンジランドに収録されている「風の歌」はもしかして「風の歌を聴け」からかな? と思ったりする(GRAPEVINEの田中さんは好きな作家の一人に安部公房をあげており、もうその時点で共感しかない)。

冒頭文の救済とほのかに薫る哀愁

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

『風の歌を聴け』より

この文は村上春樹の文章の中でもあまりにも有名な一文だとおもう。当時からこの文章自体は知っていたが、大学生や高校生の時はこの文章への印象はあまりにも幼稚で浅はかだったように思う。もちろん今でも自分自身は浅はかだし、幼稚なのだけど、今は過去の自分より人生というものは積み重ねている。だからこそわかる文章であり、この言葉はより人生を積み重ね、そこにぶち当たる壁に対し手の救済の言葉に近い。

そして、一人の書き手としてこれほどまでに勇気づけられる言葉もない。クリエイターにとって完璧じゃなくていいのだよという一言は最高の自己肯定感であり、最大の勇気なのだから。

ただしこの文章で大切なのはそこではない。重要なのは、この言葉を綴った「僕」の心境がどういう状態にあるかである。我々は、人生の中で辛い局面に遭遇した時、失意し、絶望した瞬間に、それぞれに合った自己療法の手段を身に着けていると思う。「僕」はおそらく自分の中での完璧な絶望に出会ってしまったのではないか。そして、
「いや、待て待て完璧な絶望なんてないに決まっている。今の僕の絶望なんてだれかの絶望に比べれば大したことはないのだと。」

つまり「僕」が現時点で大きな何かを抱えていて、溢れた感情を整理するために文書を書こうとしているようにも受け取れる。

もちろん問題はなにひとつ解決していないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文書を書くことは自己療法の手段ではなく、自己療法へのささやかな試みに過ぎないからだ

『風の歌を聴け』より

ちなみにだが、この一文は近代作家への批判的な一文とも取れる。村上春樹は三島由紀夫を批判的に論じており、そして三島由紀夫の文章は一種の自己療法的な要素があると感じているからだ(ちなみに僕は三島由紀夫が大好きです)。

話を戻すが、『風の歌を聴け』は冒頭から「僕」の過去の人生・出来事とそれに付随する体験における悲愴的・自虐的な薫りがただよい、同時に「僕」自身が立ち上がろうともがいているように解釈できる。
僕がこの作品において、惹かれたのはこの部分だった。
過去の体験をくよくよと引きずりながらも、「僕」は必死に人生を生きようともがいていた。それは広く一般的に共感できる部分だろうし、僕自身、現段階では一番人生で落ちていた時代でもあった。同時に這い上がりたいという意思もあった。
つまりこの作品は、「人生くよくよと悩んでいるけど頑張りたいと思う人」に捧げた作品であり、作家自身も救済へと向かうために自己療法の手段として書いた作品でもある。

鼠と「僕」について

村上春樹を語る上で、外せないのが鼠である。村上春樹の初期三部作である『風の歌を聴け』『1983年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は鼠と僕の物語であり、物語を通じて二人がどのように挫折し・変化し・成長するのかを描いてる。なお、『羊をめぐる冒険』の続きとして『ダンス・ダンス・ダンス』という作品もあるが、こちらは「僕」がメインに話である。

鼠と僕は、初期三部作において同列に描かれているくらい重要であり、最初の作品でもある『風の歌を聴け』にもそれは顕著にでている。
この関係性や、鼠についての解説や考察は色々あり、どれが正解かもわからないため、特に考察については触れないつもりだが、一点だけ、村上春樹作品において主人公以外のキャラクターの多くはモデルがいないと言われている。特に鼠については、ある部分を除いて「僕」自身と通じる部分が多く、作者としても鼠が本作で重要なキャラクターと位置づけている。

例えば、大枠として「僕」と鼠は共通点が多い。お酒を好み、お互いにジョークを交えながら話すことができる。音楽の趣味も、マインドも近しい部分がある。また鼠はお金持ちで、「僕」も鼠ほどではないが一定裕福そうな家庭のように描かれている。ただし細やかな価値観・思想・行動に差異がある。

「僕」と鼠の相違点

どちらも小説を書くがその目的も時間軸も違う。価値観は明確に別れている。女性関係は、「僕」視点という関係もあるが、「僕」はやや非現実的な側面を残しつつも妙に生々しいが、鼠の恋愛はちょっと作り物感がある(理想的・物語的)。そして「鼠」は地元にいて、「僕」は東京で様々な経験をしている。

この差異をどうして作者は描いたのかという疑問については下記引用より、なんとなくだが想像はできる。

「例えば虫歯さ。ある日突然痛みだす。誰が慰めてくれたって痛みが止まるわけじゃない。そうするとね、自分自身に対してひどく腹が立ち始める。そしてその次には自分に対して腹を立ててない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。わかるかい?」
「少しはね。」と僕は言った。「でもね、よく考えてみなよ。条件は同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いやつもいれば、運の悪いやつもいる。タフなやつもいりゃ弱いのものいる。みんな同じさ。何かを持っているやつはいつか失くすんじゃないかとビクついているし、何も持っていないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配している。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力すべきなんだ。ふりをするだけでもいい。そうだろう?強い人間なんてどこにもいやしない。強いフリのできる人間がいるだけさ。」
「一つ質問してもいいかい?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じている?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙り込んで、ビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。

『風の歌を聴け』より

ここで明確に鼠と「僕」は思考的な部分で対立し、なぜか鼠が絶望している。ここについて、色々考察はあるだろうし、どれが正解かわからないけれど、鼠が過去の作者であり(10代~20代前半)、「僕」が執筆当時の作者である(30歳の作者)とすると、自分の中でしっくりくる。村上春樹は全作品を通して理想と現実、過去と未来、男と女、昭和と平成など2つの対立構造の中でもがく人間を描いている。その原点である、この作品は自分自身の対立構造である理想的・ロマンチストとしての過去の自分と、世の中でうまく人生を生きる方法を学び、何かを明確に失った今の自分を描いているように見えた。

初期の段階から村上春樹作品を語る上重要な対立構造については描かれているし、その命題は後作品にかけて紐解かれていけば、また巻き戻しを余儀なくされ、未だにスタートラインにすら立っていないのかもしれない。この作品でも冒頭で自己療法へのささやかな試みに過ぎないと伝えているし、物事は何も解決していないと告げている。そしておそらくこの種の問題はずっと解決すること無く、僕らは朽ちていくのだろうと伝えている。それでも常に僕らは自分自身に問い続けているようにも感じる。


僕は・君たちが・好きだ。

この作品の素敵なところは、生きることは不毛だというメッセージ各所で散らばっていて、生きること自体に絶望が満ちているかもしれないと感じさせる部分にある。ただしその中でも、「僕」と鼠、そして「小指のない女の子」がそれぞれ必死に確かな自分の人生を生きている。そういった事実で深い喪失感から這い上がり、大きな肯定感を見せるところにあると思う。
この小説が書かれたのは1981年であり、戦後文学の中ではやや異端な立ち位置にある。ただ、本来この小説がより共感され、評価されるのは現代のような多様性の社会であり、すでに多様性という時代のさしかかろうとしていたタイミングで書かれたこの作品は先見の眼を持った作品なのだと思う。

あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。

『風の歌を聴け』より

この本を読むとビールを飲みたくなるし、ビールを飲んでいるときにこの本のことを考える。


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