イタいのは承知してます。それでも僕がnoteを書き続ける理由。
最後まで読んでほしい。
ん?なんだこの名言は。
「ザ・ワーズ ~心を癒す言葉~」
に載っていたこの名言が気になりすぎるので、noteの投稿がてら、この言葉を遺したディオゲネスの真意を探っていこうと思う。
【考察】phase 1
・名言と呼ばれるにはあまりにも消極的な内容。
・「黙ること」から始まって結局「黙ること」に帰結。意味わからん。
・もしや、人生を比喩しているのか???
〈胎内で黙る→少年期に聞いて学ぶ→壮年期~高年期で話して教える→死後天国で黙る〉みたいな? 考えすぎか?
ぜんっぜんわからん。
まずい。
まだ297文字しか打ち込んでいないのにキーボードが重くなり始めた。
まあいいや、GPTに聞こう。
【考察】phase 2
ℚ:「黙ることは聞くことを学ぶ道、 聞くことは話すことを学ぶ道、 そして話すことは黙ることを学ぶ道である。」これは、ディオゲネスの名言ですが、どんな意図があっての言葉なのでしょうか
なるほど、やはり「黙ることは聞くことを学ぶ道。聞くことは話すことを学ぶ道。そして、話すことは黙ることを学ぶ道である。」は、物事への思考や自己成長を深めるためのプロセスを端的に示していたんだな。
ふぅ~ん。なるほど。なるほど。
とりあえず理解はできた。
AIで文字数を稼いだとはいえ、まだ1034文字なんだよなあ。
これじゃあ「スキ」貰えないよなあ。
だから無理矢理もう一個質問。
【考察】phase 3
ℚ:名言として残り続けてきた以上、この言葉を理解し、示されたプロセスを重視し、実践する人がいたということでしょう。しかし、3つ目の工程において、「自らの無知に気づくために本来の理想である「黙る」という行為の正反対の「話す」という行為をする」という人は、すでに十分に自らの不足を知っている、謙虚な人といえるでしょう。ディオゲネスの言葉は正しいと思いますが、そのプロセスを理解した時点で目標にまで到達しているといえる、すなわち、「伝わる人にはすでに伝わっている」そして「伝わらない人には与えたところで全く伝わらない」意味のない言葉なのではないでしょうか。
GPTの意見を読みながら、人々がnoteを愛する理由を考えていた。
世界を変えるより、自分1人を変えるほうがずっと簡単だ。
だけど、noteやってる人たちはそんなこと考えていない。自分の正しさに固執している。
本音はみんな自分が主人公。
自分が正しい。何もかも。
自分以外、正しくない。何もかも。
だから、間違だらけの世界への怒りを指先のキーボードにぶつける。
自分の方が正しいから。自分のことが大好きだから。
noteを愛することは、自分を愛することだ。
けど、その事実を前にして見て見ぬふりをする。自分に噓をつく。
イタイからね。自己陶酔なんてね。
noteが自分を裏切る瞬間がある。
スキがつかない。フォロワーが減る。
イタイなあ。自分を偽ってまでこんな文章を書いたのに。
やばい、多分知り合いも読んでるのに。
SNS疲れの一種だろうか。
現実の自分と画面上の自分が乖離している、というか。
自分のイタさ、寒さに震え上がる、というか。
僕らはその時やっと、初めて「黙ること」を学ぶのだろう。
しかしイタいとはいえ、ディオゲネスが言ったとおり、この「黙る」領域に達するのは、やはり「話す」ことを厭わなかった者だけだ。
だから「聞く」者はまだしも、生まれてこの方「黙る」ことしか脳のない人間に馬鹿にされる筋合いはない。
ぶっちゃけGPTの意見なんてどうでもよかった。
名言なんて、どうでもよかった。
文字数なんて、どうでもよかった。
ただ単純に「noteでぶっ飛んだこと書いてる俺カッケー」に浸っているだけ。
noteが思いを伝える手段だったのに、いつのまにやら目的と化した。
この記事を投稿した後も後悔するのだろう。
「黙る」のだろう。きっと。
最後まで読んでくれてありがとう。
ぴったし3000文字だ。
やったね、これでスキがもらえるぜ。