めちゃめちゃ面白い評論に出会いました。~現代の世論操作~
国語の授業で『現代の世論操作』という評論文が出た。筆者の林香里氏はトランプ氏が当選した2016年の米大統領選のプロパガンダから、SNSによる近年の監視社会の在り方にまで言及している。
目から鱗というよりは、今まで目をそらしていた問題を喉元に突き付けられた感覚があり、評論文にもかかわらず終始ゾクゾクさせられた。
<感想>
この文章では監視社会における支配者層の手段の高度化について述べられている。人間社会の類を見ない急成長を実感し、とてつもなく高い建物を見上げその途方のなさに頭がくらくらするような感覚を覚えた。
情報社会の先駆けとなるインターネットの歴史は浅い。60年代にアメリカで開発されてから70年も経過していないのだ。しかし私たちは自らのほぼ全てをインターネット上に委ねている。筆者の述べる通り、「いつの間にか日常生活の一部」となってしまった。
もはや、今では人間は情報の奴隷だ。強烈なプロパガンダの「世論操作」に簡単に洗脳されてしまう被支配者層はもちろん、「世論操作」をしなくては利益を得られない支配者層もそうだ。『サピエンス全史』でハラリ氏が述べたとおり、農業革命で人類が小麦に支配されようものならば、情報革命では世論操作をする側もされる側も同等に情報の持つ首輪に拘束されているといってもまったく過言でない。
しかし、現代人はその虚しさに徐々に気づき始めている。SNSが普及してから「SNS疲れ」という言葉が流行した。大量生産される商品に囲まれる日々に嫌気がさし、カナダの森でミニマリストになった人もいる。
これらは、すべて、1万年の原始的な生活を行ってきたホモサピエンスの身体がここ100年の不自然な変化に対応できず精神をすり減らしていることの証拠だ。
山邊鈴氏は、今日の社会が各個人の集合体であるという本来の定義を超越し、もはやうわべのものと化してしまったと指摘する。そしてそのためには「社会」を鍵括弧のない社会にすべきであると述べる。
「距離を取って『社会』を語り自分の安寧を保とうとせず、社会を喋る。そうしないと、ひとりでなく『社会』のための社会になってしまうから」と。
『現代の世論操作』を読み、人間社会が人間の手に負えないほど複雑になりすぎていると感じた。しかし、スマホを80億人の手から奪ったとて現状は解決されない。情報の奴隷になっていたという歴史と感覚を奪うことはできないからだ。
だから、無理に社会の古来の形を取り戻すことよりも、山邊氏の述べるような「鍵括弧のない社会の語り合い」が必要なのである。社会は難しくなく、実は個人が集合しているだけ。他人事の妄想なんかではなく、自分事のノンフィクション。この感覚こそが世界の「世論操作」に負けない一歩進んだ人間社会に求められる知恵だと私は考える。