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右を見ても左を見ても、同じ人なんて誰もいないんだよ

「みんな持ってるもん」

この言葉で、私は何回親を困らせただろうか。
「よそはよそ、うちはうち」と一掃され、何度も悔しい思いをしたことを未だに覚えている。

気づけば、その言葉をいつの間にか言わなくなった自分がいる。
ようやく、「よそはよそ、うちはうち」という言葉の意味を理解したのかもしれない。

子供のうちはまだ可愛い駄々こねで済んだかもしれないが、大人になると大変である。

「みんなが言うならそうしよう」
「みんなと同じもの食べるよ」
「みんながやるなら私もやろうかな」

みんながみんながと、まるでみんなが同じでなければいけない掟でもあるような、そんな空気さえ感じる。
大人になるといつの間にか「みんなと一緒がいい」が「みんなと一緒でなければならない」に変わってしまうのだ。

「和をもって尊しとなす」という言葉がここまで歪曲して後世に伝わるとは、聖徳太子も思ってはいなかっただろう。

それらの黙認の文化が顕著に表れているのが、就活である。
皆、黒いスーツに身を包み、履歴書と睨めっこしながら電車に揺られているその姿は、右倣え右を体現しているようだ。

私も夏の暑い中を、スーツを着ながら何社も面接に受けに行ったことを未だに覚えている。
就活スーツとやらは、着ているだけで格好がつくものだから、私はいささか嫌いではなかった。

みんなが同じ服をきてようが、同じ髪型をしてようが、私が私であることに変わりはない。
であるはずなのに、みんなと一緒になった瞬間、自分の個性が消失したかのようなあの感覚はなんなのだろうか。

私にはきちんとした名前がある。
健全な身体だって、性格だって、経験だって、情緒だってあるのだから、まったくもって同じ人など存在するはずがない。

個性とは蓄積されていくものだ。
私たちの財産である個性が、消えていくはずがない。
ではなぜ、「自分には個性がない」と感じてしまうのだろうか。

それは、世界のほんの一部の個性狂信家の戯言によって、個性が消えたと錯覚させられているのだ。

就活スーツを着ていると個性が消えるのだろうか?
一杯目の乾杯ビールは歯車の証なのだろうか?
同じような髪型は金太郎あめと一緒なのだろうか?

そんなわけがない。
私は通行人AでもNPCでもサンプル数1でもないのだ。

これは創作活動でも同じことが言える。
先日、私は「彷徨えるオリジナリティ」というエッセイを出した。

きっと物語は、誰かのどこかと重なっているというものだ。
誰も二番煎じになりたくて書くわけではないが、「どこかでみたことあるありきたりな話」だなんて言われた日には、最悪筆を折ってしまうだろう。

君の個性は消えてなどいない。
君の想いで書いた作品が、ありきたりなわけがないのだ。

周りを見れば、同じ服を着て、同じ背格好ぐらいの人がごまんといる。
作品を作れば、同じジャンルの話がわんさかあるかもしれない。
それは確かに、人としての宿命なのかもしれないが、だからと言って、「自分には個性がない」と落ち込まないで欲しい。
個性がないと思わされるのは、個性狂信家たちの戯言のせいであって、決して個性が消えたわけではない。

右を見ても左を見ても、同じ人なんて誰もいない。
いくら同じ服を着ようとも、同じ作品を書こうとも。
当たり前のことかもしれないが、忘れないで欲しい。

なにせ、君たちには立派な個性があるのだから。

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静 霧一/小説
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