現代史のなかの宗教とテロリズム 安倍元首相襲撃事件で考えたこと
決して小さくはないオフィスが一斉にざわついた。「安倍さんが撃たれたって」。その一言の波紋はすぐに広がって不穏なものが充満するように感じた。2022年7月8日昼前のことだ。この記事は結局、ITとはかけ離れてしまった。あらかじめご了承いただきたい。
単独襲撃は右派の専売特許?
誤解を恐れずに言えば政治家へのテロ行為は、安全な日本国内においてもさほど珍しいものではない。2010年代にも数件が起きている。近年の事件のほとんどが過激派右翼による左派政治家への襲撃であった。いや近年に限らず、昔から要人襲撃事件といえば、その傾向が強い。こういった事件の犯人はほぼすべてが右翼的な政治信条の持ち主である。
テロといえば左派の集団蜂起的な街頭闘争や爆弾闘争などが思い浮かぶが、意外なことに左派による政治家など要人への単独襲撃はあまり見られない。これは大きく日本近現代史の特徴と言ってもいいかもしれない。
王族や貴族への左派の単独襲撃はロシア革命前後に世界的に見られ日本も例外ではないが、むしろこの時代が特異なだけで残りのほとんどの単独襲撃は右派によって行われている。
今回の事件の犯人の思想信条については今後の捜査によって変わってくる可能性が多々あるが、自衛隊に属していたこと、事件前のSNSへの投稿などを見るにつけ、右派的な傾向があったようで、これもまたひとつの連なりを感じさせる。
安倍元首相が襲われたのは白昼の街頭であり、ターミナル駅の前、しかも聴衆に囲まれるなかであった。これはこれまでの右派の単独襲撃では珍しい。なぜなら、右派の単独襲撃はホテルの一室や、自宅前、あるいは公の場でも犯人と要人が一対一になる例が多いからだ。それゆえにこれまでの襲撃事件は証言も限られるし、真相がどこか靄に包まれたような印象が残りがちだった。
安倍元首相襲撃事件の衝撃がどこにあったのか。それは襲撃の瞬間から犯人逮捕までが全てが映像に残り、それがリアルタイムで世間に広まったことにある。
私が思い出していたのは浅沼稲次郎暗殺事件である。1960年、総選挙を控え日比谷公会堂で開催された自民党・社会党・民社党の3党首による演説会の最中、社会党中央執行委員会委員長だった浅沼稲次郎が刺殺された。浅沼はまさに演説中であり、その模様はNHKによって中継されており、男が舞台に駆け上がり浅沼に突進して腹を突き刺す場面が放送にのった。
犯人は山口二矢(おとや)という17歳の右翼少年であった。共産主義、社会主義の浸透による危機感、焦燥感が、この愚直なほど一途な少年を突き動かしたのだ。
山口二矢については大江健三郎に山口を題材にした「セブンティーン」「政治少年死す」という短編があり、これらは長期に亘って発行されてこなかった。『大江健三郎全小説 第3巻』(講談社)で読めるようになったのはつい最近である。
私がこの事件に関心を持った頃は当然、この小説を読むことは叶わず、私が求めたのは沢木耕太郎の『テロルの決算』(文春文庫)であった。一本の脇差で交錯するその瞬間を目指して進む浅沼と山口の半生が丹念に描かれる名作だ。どういうわけか、深く印象に残っているのは、姓名判断では大吉数である“山口二矢”という名を持ちながら、凶悪犯罪を犯した少年に対する姓名学者の困惑だ。
事件当夜、鑑別所の留置房の壁に歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と記し、シーツを裂いた紐で首を吊った山口二矢は、神格化されていった。
そしていま、山上容疑者への神格化は徐々に始まっているように思えてならない。
浅沼暗殺事件にショックを受けた子どもたち
浅沼稲次郎はただの政治家というよりも有名人であった。というのは、ラジオの子ども相談室の解答者をつとめ、そのダミ声からも人気があったからだ。だから、日比谷公会堂で起きたテロ事件にもっともショックを受けたのは子どもたちであったという。この子どもたちとはつまり団塊の世代であり、のちに全共闘運動を担う世代である。彼らの証言集である『全共闘白書』(全共闘白書編集委員会編/新潮社)だったかに、子どもの頃に浅沼稲次郎暗殺事件に非常にショックを受けたという声が複数、残っていたように記憶している。
いや、いろいろと書棚を漁りグーグル検索をかけても、浅沼稲次郎の子ども相談室の件が見つからずにいる。もしかしたら、記憶違いかもしれない。ただ、全共闘運動世代の幼少期に浅沼稲次郎暗殺事件が発生したのは事実であり、世間を震わしたこの事件に子どもたちがショックを受けなかったはずはないのだから、これ以上の調査はやめにして筆を進めよう。
全共闘といえば、日本赤軍の重信房子が刑期満了で出所したのは、安倍元首相襲撃事件の2カ月ほど前である。全共闘運動を主導した全学連のなかでももっとも過激だった第二次共産主義者同盟(ブント)赤軍派のメンバーであり、北朝鮮に渡った「よど号」グループや京浜安保闘争と合流し陰惨なリンチ事件を起こした連合赤軍と出自を同じくする。
1971年、中東に渡り「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」に参加しテロを活発化させる。連合赤軍事件に日本国内が戦慄した1972年、重信が率いた赤軍派アラブ委員会はテルアビブ空港乱射事件を起こし機関銃乱射、手榴弾による自爆の巻き添えなどで100名以上の犠牲者を出している。
重信は1974年、オランダで大使館に立て篭もり同志の奪還を果たしたハーグ事件により国際手配される。日本赤軍はこのほかにも衝撃的なテロ事件を数々起こし、さらに多くの同志奪還を果たし、ドイツのバーダー・マインホフ・グルッペやイタリアの赤い旅団という学生運動からスタートした武装組織に大きな影響を与えた。重信のこの時期の詳細な活動については『日本赤軍私史 パレスチナと共に』(河出書房新社)という大部の著作がある。
ところで、重信を取り上げたのにはテロリズム以外にも理由がある。
テロリズムの連鎖
なぜ、重信房子なのか。理由は彼女の生い立ちにある。すでにある程度は知られた事実だろうが、重信房子の父親は重信末夫という。第二次世界大戦前に「一人一殺」を標榜して複数の要人暗殺事件を実行した血盟団事件につらなる人物である。より詳しくいえば、血盟団のメンバーであった四元義隆と同郷で一時期はともに右翼団体の金鶏学院の門下生であった。
この四元義隆なる人物は血盟団事件で逮捕されるも恩赦で出所した後は政界に深く関わりをもち、在野でありながら終戦時の首相である鈴木貫太郎の身辺警護を行った。戦後もフィクサーとして、中曽根政権、細川政権を陰で支えた。もう一人の著名なフィクサーである田中清玄とも関係が深い。田中が崇拝した禅僧(臨済宗)、山本玄峰と縁がある谷中の全生庵に自民党議員が参禅しメディアに取材されることも少なくなかった。安倍元首相も何度かここで座禅を組んでいる。山本玄峰の名を出したのは、終戦の玉音放送で有名な詔勅「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を鈴木貫太郎に直接、進言した人だからだ。ここが、この記事の結論の伏線になる。
山本玄峰については、多くの回想録が残っているが、『再来—山本玄峰伝』(帯金充利著/大法輪閣)を読むと、その壮絶な半生が浮かび上がってくる。そして当時の禅僧の恐ろしいまでの求道心を知るだろう。
四元義隆には『昭和激流 四元義隆の生涯』(金子淳一著/新潮社)という評伝があるのみだが、田中清玄の関連書籍は多い。なかでも『田中清玄自伝』(ちくま文庫)は痛快な冒険小説さながらの面白さである。歴史というのは、こうした人物がつくってきたものなのかもしれないと思わせられる。是非善悪は別に、ありきたりな陰謀論よりよほど事実の重みがあることだけは請け負っておきたい。
血盟団事件とデフレ政策
血盟団とは日蓮宗の僧侶であった井上日召が主導した小学校の教員や東大生をふくむグループで新興の仏教思想である日蓮主義を基本として、極右思想に基づく国家改造を目指した。
井上は茨城県大洗町の立正護国堂の住職をしながら若者らを取りまとめ、当時の国家体制を憂いた若者たちと研究活動ならびに鍛錬をする。海軍将校の影響でテロリズムに進んでいく。そして、ついにグループは元大蔵大臣の井上準之助、実業家の團琢磨を殺害する。
北海道大学准教授の中島岳志はその名も『血盟団事件』(文藝春秋)によれば、血盟団メンバーは、昭和金融恐慌の原因が井上の金融政策にあり、その際、團が理事長を勤めた三井がドルの買い占めによって為替差益で私腹を肥やしたことを重大な罪悪と考えていた。いつの世も貧困問題の憎悪の標的になるのが経済政策、金融政策であることは言うまでもないが、テロリストや批判者たちが憎んだ以上に当時の金融政策の舵取りは困難なものであった。
井上準之助は金解禁、つまり金本位制への復帰によって経済を安定させようとした。しかし、これによってドルの買い占めが起きた。先述のように為替差益が狙われたためだ。金解禁は緊縮財政である。井上準之助は濱口雄幸内閣で大蔵大臣に就任する以前、日本銀行の頭取であった。通貨政策には自負があったと思われる。しかし、金解禁はうまくはいかなかった。
現在、評価されるのは井上準之助の前に大蔵大臣だった高橋是清の財政だ。高橋是清は世界でも最も早く世界恐慌から脱出させた「高橋財政」と言われる積極財政によって金本位制を停止して管理通貨制へ移行した。詳細は省くが、これは政府の管理で通貨を自由に発行する金融緩和である。現代でいえば、アベノミクスに近い考えと述べておく。デフレを進行させた井上準之助の財政と、インフレをよしとした高橋財政の比較は『高橋是清と井上準之助—インフレか、デフレか』(鈴木隆著/文春新書)でよくわかる。この二人の通貨と自由をめぐる対立は、あたかもケインズとハイエクの対立の日本版のようで面白い。『ケインズとハイエク—貨幣と市場への問い』(松原隆一郎著/講談社現代新書)といったタイトルの書籍も多数あることを付記しておこう。
さて、よく知られているように、高橋是清も二・二六事件によってテロリズムの犠牲者となっている。なんという皮肉か。
危機の時代に宗教と政治は手を結ぶ
血盟団の首謀者、井上日召は実は日蓮宗の僧籍を持っていなかった。そんな井上を日蓮主義に向かわせたのは、田中智学の国柱会である。田中智学の日蓮主義は知識人や軍人に多大なる影響を与え、第二次世界大戦へと向かう思想形成の根幹を担っていると言っても過言ではない。日蓮主義の「道義的世界統一」という目的は、軍部をしてアジア進出を推し進めさせた。世界統一を意味し軍部がスローガンにした「八紘一宇」こそ、田中智学によるものである。国柱会そのものは既存の寺檀制度によって守られた仏教への批判からスタートしている。明治維新後に登場した新宗教と同じく既存仏教への革新トレンドのなかにある。余談だが、鎌倉新仏教─浄土宗、日蓮宗、臨済宗─も国難の時代に既存仏教を批判しながら登場していることは今年の大河ドラマでも明らかになっていくだろう。
危機の時代に登場する新興宗教の多くがそうであるように、国柱会も若者の心をつかんで発展の基礎とした。現状に満足な若者は新興宗教に帰依などしない。新興宗教に集まるのは現状に不満な若者たちだ。そうなると自然と思想は過激化していく。
今回、安倍元首相襲撃事件で俄に発覚しはじめている旧統一教会も登場時はまさに危機の時代であったし、若者への高い求心力をもっていた。戦後には、共産主義に対する危機感は絶大なものであり、共通の敵をもつ者どうしの連携は深められた。旧統一教会と自民党がそれである。思い出してほしいのは、旧統一教会への世間への批判が高まった時期は、ソヴィエトが崩壊し共産主義が終焉すると思われた時代だ。危機の後退が旧統一教会批判を進めさせたといえるだろう。
危機の時代に共通の敵をもつ宗教と政治は容易に手を結ぶ。政治への浸透はじわりじわりと時代の流れを変えていく。政治を変え時代の流れを変えてきたのは信仰に狂った若者たちだったのではないかとさえ思う。
大正末から昭和初期、国柱会の影響範囲は広かった。有名なところでは宮沢賢治も心酔者であった。身につまされるのは、宮沢賢治は友人に「日蓮宗なんか嫌悪していたが」と述べながら、国柱会、田中智学への思慕を語っていることだ。どんなに嫌悪、警戒しても宗教というのはちょっとした心の隙間に入りこむ。
国柱会は結果的に当時の日本の行く末を決めてしまう。それは石原莞爾という陸軍のエリートを信者に持ったことに起因する。石原は「八紘一宇」の思想に共鳴してアジア主義を唱え、上海事件を起こし盧溝橋事件を捏造して日中戦争の引き金を引く。
満州国の五族協和のビジョンも石原によって国柱会の思想が反映されたものだ。満州国建国宣言の際の巨頭集合写真には、満洲も日本も国旗がなく「南無妙法蓮華経」の髭題目が垂れ幕としてかかっているのだ。
ここにもう一つ、歴史の皮肉を見ておくと、安倍晋三の祖父であり旧統一教会と非常に関係が深かったとされる岸信介は、満州国の有能な官僚であり満州でアヘン売買を資金源としていた。この資金がさまざまな工作活動に使われたのだ。
国柱会なくば、石原の思想なく、石原の思想なくば満州なく、満州なくば岸信介もなかった。そうは言えまいか?
国柱会がいかにして国を動かし太平洋戦争までの道のりを拓いたのかは、寺内大吉の『化城の昭和史—二・二六事件への道と日蓮主義者』上下(中公文庫)で仔細に分析されている。二・二六事件の思想的指導者であった北一輝もまた日蓮主義者であることも詳しく述べられており、昭和史と特定宗教の関係が浮き彫りにされる。思えば、私が満州国建国宣言の集合写真を初めてみて驚愕したのも、この本である。
寺内大吉は作家のみならず浄土宗の僧侶でもあり増上寺法主までを務めた。増上寺といえば先日、安倍晋三元首相の葬儀が行われた港区芝の大寺である。ここにも微かな歴史の連携を見る。
そういえば先に伏線といった。それは、太平洋戦争とは日蓮宗(国柱会)が始め、臨済宗(山本玄峰)が締め括ったとも言えるような気がするからだ。
昭和とその残滓の弔いを浄土宗がとりもった、のかもしれない。