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常識を嘲笑うことができなければ、芸術も哲学も私たちをただ不自由にする

年が明けた。いつごろからだろうか。私にとって正月がさして目出度いものでもなくなったのは。歳をとって面白みがなくなったこと、1年のインターバルを短く感じるようになったことなどを原因に、「またかぁ」の気分が拭えない。


一休とラース・フォン・トリアー

門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

これは室町時代の禅僧・一休宗純が詠んだ歌として有名だ。頭蓋骨を杖の先につけて正月の都を練り歩いたとの逸話もある。まことに破戒僧となるわけだが、これをもって一休を宗教者にあらざる狂人と決めつけるのはいささか早計である。なぜなら一休が、あるいは多くの禅僧たちが意図したのは、規定や常識の転覆であり価値の転換だと考えるのが妥当だからだ。あらゆる執着を捨て本来の自己に目覚めるために。
正月がめでたいなどと疑いもなく浮かれる人どもの目を覚ますことは、それ自体、自分の手で価値を取り戻せと促すのに等しい。室町時代であろうと令和の現在であろうと人というものは価値を自分の力で測ることができない。だから、他人がめでたいといえばめでたいものだと考え、昔から尊いとされれば尊いと信じ、価格が高ければ良いものだと思い込む。そんな私たちに一休の鉄槌のごとき言葉が振り下ろされる。
こうした既存の制約を打破させてきたのは多くの場合、芸術家たちの作品であったし、一休ら禅僧も多くは和歌や漢詩、墨跡といった表現を通して行なってきた。
一休宗純の漢詩は『狂雲集』(柳田聖山訳/中公クラシックス)で読める。森女とのまぐわいまでをポルノさながらに表現する一休は現代的な意味で芸術家でもある。それはたとえばラース・フォン・トリアーが現代でもっとも毒の強い芸術家であることと同様に、だ。

芸術家と犯罪者と子どもたち

時代の変化を先取りするのは、芸術家と犯罪者と子どもだと述べたのは、かのフリードリヒ・ヘーゲルである。たしか『精神現象学』(上・下/熊野純彦訳/ちくま学芸文庫)だったか『歴史哲学講義』(上・下/長谷川宏訳/岩波文庫)の記述だったはずだが、今は手元になくわからない。
このヘーゲルの言をもって新右翼活動家で作家でもあった見沢知廉は神戸連続児童殺傷事件を時代変化を象徴するものととあるエッセーに記している。時代が混迷化すると、既存の価値では想定できないような凶悪な犯罪が起きたり、まったく想像もつかない思想と習慣をもった子どもたちが登場したり、既存の評価軸では酷評しかないような新芸術が生まれたりする。神戸連続児童殺傷事件は子どもによる酸鼻を極める凶悪犯罪なだけでなく、犯罪の動機も方法もある種の自己表出としてあった。
ひとつ前の世代に理解しえないものを突きつけることで次の世代が登場する。言ってしまえばそういうことだ。古い世代は必死に言葉と論理を尽くして理解しようと試みる。しかし、それはいずれも敵わない。

抽象性や感性の源泉

現代はVUCAの時代だと言われる。どんな想定もなにもかもが役に立たない時代というわけだ。そんな時代に俄かに売れはじめたのは哲学書だった。それまでは思想家、批評家を名乗っていた人たちもいつしか哲学者になっていた。すこしすると価値の揺らぎに耐えかねた意識の高いビジネスパーソンたちが次々とアート、アートと言い出した。つまり、この十数年の間に、将来を考えるのに具体性や論理がまったく役に立たなくなっていたのだ。かわりに求められたのが抽象性であり感性だった。哲学や芸術こそ抽象性や感性の源泉であるというわけだ。
STEM人材からSTEAM人材へといったふうにテクノロジーの分野でも価値観の再点検が始まっていることは1年ほど前にも書いた。このトレンドは当然、出版ビジネスに波及する。コンサルタントで著述家の山口周氏の一連のベストセラーはひとつの象徴だろう。私たちはアートになんとか現状を打ち破る想像力を求めている。
しかし、私はこの手のトレンドには与しない。なぜなら、これらのベストセラーは抽象性や感性の重要性を具体的、論理的に語るばかりで、ちっとも価値を揺るがすような体験を与えてはくれないからだ。体験がない知性には、どのみち新しい価値など宿るわけもない。
このごろは『ハウ・トゥ・アートシンキング』(若宮和男著/実業之日本社)のように、あえて皮肉なタイトルをつけて、具体的なアートの活用方法からは距離をおいた本も見かけるようになっている。アートをビジネスに取りこむことは、ビジネスパーソンが美術史を学んだり絵を描いたりするようになったりする程度の短絡では難しい。ビジネスのために芸術や哲学を求めれば、それはただの労働に成り下がるからだ。

どんな明日になろうとも耐えられるように蓄え、備えろ

ビジネスパーソンが功利的に知識や教養に接すれば、それはほとんどの場合、労働の一部になってしまう。給与はあがるかもしれないが、新たな価値は手に入らない。凡百のビジネス書がいつのまにかキャリアのうえを通過して忘れ去られるのは、このせいだ。芸術や哲学といった教養をビジネスの資産にしろとこれらの本は言うが、その心根がすでに貧困だ。労働と化した教養では明日はつくれない。せいぜいが今日を維持するだけだ。まあ、多くのビジネスパーソンが今日を維持することに汲々としていることも事実だから、それはそれで役には立つのだろうが。
私たちが明日をつくれなくなってしまったこの十数年の間に、私たちのキャリアから具体性や論理はすっかり喪失している。ロールモデルも正解もない時代で私たちは戦略を見失っている。そう論じて世界的にベストセラーになったのは『ライフシフト 100年時代の人生戦略』(リンダ グラットン、アンドリュー スコット著/池村千秋訳/東洋経済新報社)だ。医学の進歩で私たちの寿命は圧倒的に延びた。「教育→仕事→引退」という3ステージの人生のモデルは普遍性を失っており、年齢に応じた人生のあり方さえも一般といえるモデルがなくなっている。こうした人生の変化において、重要なのは有形と無形の2つの資産であると言う。
有形資産とはそのまま金銭であり、預貯金、年金だ。しかしより重要なのは無形資産だ。著者たちは無形資産をさらに次の3つにわけて説明する。すなわち、主に仕事に役立つ知識やスキルである「生産性資産」。健康や良好な家族・友人関係を指す「活力資産」。変化に応じて自分を変えていく力である「変身資産」。
明日をつくれないなら、どんな明日になろうとも耐えられるように蓄え、備えろというわけだ。これはこれで非常に現実的な教えだと思う。すくなくとも、哲学や芸術を振りかざすビジネスパーソンよりいくらか頼もしい。

普遍性のある人生設計が可能だった時代

『ライフシフト』で取り上げられていたかつて普遍性のあった3ステージの人生とは果たしてずっと昔からそうであったかといえば謎だ。私はむしろそんな人生は第二次世界大戦後の先進国で中流層が拡大したことによって普遍性を得ていたにすぎないのではないかと考える。
なぜなら産業革命期では教育以前に仕事があったし、引退などというのは年金制度が整備されなければ資産家にかぎった話であったはずだ。トマ・ピケティが『21世紀の資本』(山形浩生、守岡桜、森本正史訳/みすず書房)で喝破したように、1930年から1975年にかけて世界大戦や世界恐慌、それにつづく復興によって富が再分配されたことで、この時代だけは格差が縮小した、むしろ稀有な時代なのだ。
こうした格差が縮小した経済成長の時代において、就学率はあがり、企業は継続的に成長することで雇用をうみだし、安定的な税収が年金制度を維持した。そんな稀有な時代に普遍化した人生設計は、当然、現代の私たちのものになるわけもない。格差はすでに再拡大の流れになって久しいし、企業が継続的に成長するなど御伽噺のようだ。ぜったいに潰れないないと思われたリーマンブラザーズさえ潰れる。安泰な企業などどこにもありはしない。
ピケティが『21世紀の資本』のなかで、格差拡大の原因を「r(資本収益率)>g(経済成長率)」という式で示したことは有名だ。経済成長で給与(インカムゲイン)があがるよりも、資本からの収益(キャピタルゲイン)のほうが早く増大する。いつまでも、給与は収益には追いつかない。これは肌感覚としてもよく理解できる。
ふと、ここで『ライフシフト』にもどって、この式を無理矢理あてはめてみようと思いついた。こうなる。「無形資産>有形資産」。なんだかすこし希望が湧く。預貯金よりも、知恵や仲間や経験のほうが、価値が増大しやすい。そう考えてもいいのではないか。

サリンジャーと禅

第二次世界大戦後に普遍化したライフステージがある。それは「ティーンエイジャー」という世代だ。若者文化、若者特有の反抗といったものが類型化し、経済的にも意味をもつようになったのは、1950年ごろのアメリカが発祥だ。
ティーンエイジャーをもっとも早く発見したのは、小説家のJ・D・サリンジャーだ。これも時代の変化を芸術家が子どもの視線によって捉えたという意味で、先のヘーゲルの読み解きに通ずるものがある。凍てつくニューヨークをさまようホールデン少年こそ、後のすべての悩める不良少年のアーキタイプだ。前の世代に理解しえないものを突きつけることで次の世代が鮮烈に登場する典型でもある。
サリンジャーは寡作なうえにどの作品も謎めいており未だ読書家の関心をひいて止まない。私が昨年1年間でもっとも面白く読んだのは、何を隠そう『謎ときサリンジャー—「自殺」したのは誰なのか』 (竹内康浩、朴舜起著/新潮選書)である。短編「バナナフィッシュにうってつけの日」におけるグラス家の長男シーモアの死をめぐるミステリー仕立てのノンフィクションである。詳しくは本書にあたってほしいのだが、サリンジャーが傾倒した禅の思想からの読み解きは目を瞠るものがある。『ナインストーリーズ』(柴田元幸訳/ヴィレッジブックス)のエピグラフに掲げられる白隠禅師の有名な公案「隻手の声」が大きな鍵を握るあたりは見事すぎて拍手したくなるほどだ。
サリンジャーがなぜ禅に傾倒したか。それこそ、まさに本稿のテーマである既存価値の打破だったはずだ。禅は、規定や常識の転覆であり価値の転換を促すものである。
冒頭の一休のように常識を嘲笑うことができなければ、芸術も哲学も私たちをただ不自由にする。執着心を強めるばかりの芸術や哲学の持ち上げは、無能なビジネス書の著者に任せておけばいい。そんな連中を鼻で笑ってやれるほうがよほど未来がある。


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