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『コンテクストデザイン』(著者 渡邉康太郎)を読んで思ったこと


コンテクストデザイン 
著者 渡邉康太郎
発行 Takram



本に出会ったきっかけ


ぱらぱらと、めくった雑誌「暮らしのおへそ」
その中で、不思議な違和感を放つ記事を見つけた。

丁寧な暮らしとは縁遠いため、美容室でもないと開くことはなかったと思う。そう、その日はカラーにカットにと、久しぶりの施術中だった。

メモについての特集で、雑貨店店長、料理家と続き
突如”コンテクストデザイナー”との肩書きを目にしたのだから
違和感を感じたのだろう。

”コンテクストデザイン”とはなんぞやと読み始めた時、ドライヤーは止まる
美容室を出て書店に向うまでは、ごくごく自然な流れだった。

コンテクストデザインとは、それに触れた一人ひとりからそれぞれの「ものがたり」が生まれるような「ものづくり」の取り組みや現象を指す。換言するならば、読み手の主体的な関わりと多義的な解釈が表出することを、書き手が意図した創作活動だ。 

同書 p12

なぜかとても強く惹かれた、コンテクストデザインという概念。もっと詳しく知りたいがデザイナーではない自分は読むに値するのだろうか。

迷った末に、好奇心に素直に従ってみることにした。

コンプレックス


同書を読み終え、この文章を書くまでに、しばらく時間が空いてしまった。

著者のポッドキャストを聴いては増えていく興味関心に、本を読むことを繰り返していたからだ。

新しい本に出会うたび、想定外の腹落ちや想起されたアレやコレ、新しい問いや違和感など、頭の中は常に飽和状態。自然とメモに手が伸び、吐き出すように書きなぐる。

そんな、心地いい循環を得ていた。
著者に出会い、好奇心の範囲がグッと広がったことは間違いない。

さて、皆さんは、自分の中に蓄積していく思考やひらめきと、
どう向き合っているだろうか。

マグマのごとくフツフツと、今にも外へと出たがっている時
わたしはデザイナーへのコンプレックスのようなもので、鎮火している気がする。

過去の話。

広報や販売促進などの仕事をしていると、デザイナーと関わることが多く
自分の頭にあるものを形にしてもらったことも、もらえなかったことも経験した。

作りたいものが伝わらない時には、自分にデザイン力があればなと思い
伝わった時には、自分にもこんなデザインスキルが欲しいと思う。

どちらにしても、デザイナーは悔しさの対象だった。

悔しさを糧に手を動かしてみるも、他者からも自身からも評価は得られず
悔しさとコンプレックスは強くなる一方。

この気持ちが、思考の噴火を抑えているのだ。

次第にそれは、自分の思考を価値あるものへ変換するスキルがないという諦めへとつながっていく。

表に出なかった思考は、脳内のどこかで身をひそめ、来るか来ないかわからない表出の機会を待っている。ただ、残念なことにそれはあまりに少なく、やがて忘れ、消えていくだろう。

わたしは、この無常感を救いたいのだ。

表出への許し


さて、同書に話を戻そう。

いつかの美容室で、あんなにも”コンテクストデザイン”に惹かれたのは、おそらく、このコンプレックスが原因だったのだと思う。

コンテクストデザインは個々の弱い文脈の表出を促す。それは、読み手を書き手に、消費者を創作者に変えることを企図するデザインだ。

p15

「思考の表出=価値あるものへの変換」だと、いつから思い込んでいたのだろう。

そもそも、価値があるかないかは他者が決めることであり、価値を狙って表出することは何かとても邪だ。

”弱い文脈”をそのまま表現することは、自分のためである。

わたしはデザインスキルを求めていたのではなく、頭の中を言語化したかったようだ。

同書に出会い、思考の表出への許しを得たような気がした。

万が一、私の文章から更なる”弱い文脈”が生まれることがあるのなら、コンプレックスは消えるのだろうか。

好奇心に正直に、思考を素直に言語化すること。
これが、わたしにとってのコンテクストデザインであると思いたい。

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