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邪馬台国は見つかっていた【6】梯儁でも張政でもない第3の帯方郡使がいた


ゆい:
第3の帯方郡使?

おじ:
うん。梯儁と張政の前にもう一人、日本に来て倭人伝を書いた人物がいたんだ。その人物は確かに来日した。しかし邪馬台国までは足を運んでいなかった。だから途中から距離の表記も違うし、邪馬台国に行っていない人が書いたような文章になっているんだ。

レン:
なるほど。それならつじつまが合いますね。

おじ:
さらに第3の帯方郡使の存在を示す大きな理由が倭人伝に書かれている。それは倭国の朝貢が初めてにもかかわらず、魏の天子が卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えていることだよ。

ゆい:
そのことが、どうして理由になるの?

おじ:
239年6月、魏の洛陽で初めて朝貢する際、倭の女王は次の物を献上したんだ。

・生口(奴隷)10人
・布

おじ:
同じ年の12月、魏の天子は次のような返礼品の目録を授与している。

・「親魏倭王」の金印紫綬
・金8両
・刀2本
・銅鏡百枚
・真珠    ……等

ゆい:
献上品と比べてずいぶん豪華な返礼品ね。倭はエビで鯛を釣ったみたい。

おじ:
魏の立場になって考えてごらん。海の向こうの、わずかばかりの貢ぎ物を持って来た見も知らぬ国に対し、その使者の発言を鵜呑みにして王の称号を与え朝貢とは比べ物にならないくらいの返礼品を授けるかい?

ゆい:
普通はあり得ないよね。魏の天子は邪馬台国のことを前から知っていたの?

おじ:
そうだよ。金印を授与する前段階として、邪馬台国について事前に詳細な調査がされ、その内容は天子に報告されていたはずだ。その上で倭国の王にふさわしいと判断し、卑弥呼に親魏倭王の称号と豪華な返礼品を与えたんだ。実際、初めての朝貢を受けた魏の天子は、倭国について詳しく知っている発言を詔書で述べているんだよ。

レン:
万が一、金印授与のあとに別の使者がやって来て「実は邪馬台国は我々が滅ぼしました。真の王は我々です」なんて言われたら、魏の役人は左遷では済まないでしょうね。

ゆい:
じゃあ、魏の天子はどうやって卑弥呼が倭の王にふさわしいと判断したんだろう?

おじ:
当然、彼が判断するための資料が提供されていなければならない。それこそが魏志倭人伝であり、「倭国現地取材レポート」だったんだ。資料を準備したのは恐らく帯方郡の長官だと、僕は思うよ。

ゆい:
そういうことなのね。

おじ:
帯方郡長官の立場になって推定してみると、こんなストーリーが考えられる。

――狗邪韓国から南に海を隔てた、倭国の邪馬台という国の使者が、ある時貢ぎ物をもって挨拶に来る。次にまた来ると、今度は洛陽の天子に挨拶したいと言う。倭国の王の称号が欲しいようだ。話を聞いてみると、かなり広い地域を治め、数ある国々を統率しているようである。

しかし使者の言うことが正しいという保証はどこにもない。下手に信用したら自分の地位が危ない。とにかく確かめなければならない。そこで、部下の一人に調査を命じ、使者の帰国に便乗して倭国を訪問させる。

命を受けた部下は、足を進めた国々の状況についてできるだけ事細かに観察した。行けなかった国については案内役の倭人から詳しく聞いた。その結果をまとめて彼は上司である長官に報告する。報告書は洛陽の天子に送られ、それを読んだ天子は倭国の使者に「親魏倭王」の称号を与える――。

レン:
なるほど。違和感のないストーリーですね。

おじ:
「倭国現地取材レポート」は魏の天子が邪馬台国に王の称号を与えるべきかを判断するための重要な報告書だった。だから倭人について詳細に書かれていたんだよ。

ゆい:
これで ①誰が倭人伝を書いたのか、の答えが出たね。

おじ:
ここまでに、わかったことをまとめてみよう。

・誰が倭人伝を書いたのか
→梯儁と張政の前に来日した「第3の帯方郡使」

・いつ書いたのか
→邪馬台国が朝貢した239年より前

・どのような目的で書いたのか
→邪馬台国が倭国の王にふさわしいかを調査し、魏の天子に報告するため

【7】につづく


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