【血縁関係シリーズ⑦】山内一豊と山内容堂の血縁関係
皆さんは土佐藩という藩を知っていますか?
土佐藩といったら、
幕末の四賢侯の一人である土佐藩主山内容堂(豊信)や坂本龍馬、
板垣退助、岩崎弥太郎、人斬り以蔵とよばれた岡田以蔵などなどたくさんの有名な人物がいます。
土佐藩は幕末にたくさんの有名な人物が登場しますよね。
元々、土佐の地は戦国時代には長宗我部氏(ちょうそかべ)という人が支配していました。
しかし、
関ヶ原の戦いで山内一豊という人が徳川家康に味方をしたことにより、
家康から一豊に土佐の地が与えられました。
これによって土佐藩が成立し、
土佐の地を支配するのは長宗我部から山内へと変わりました。
土佐藩の藩主は江戸時代を通じて山内家がなりました。
土佐藩の初代藩主は山内一豊で、幕末に有名な土佐藩主は山内容堂です。
この2人の血縁関係はどのようなものなのか?
気になったのでウィキペディアを参考にして調べてみました。
結論から言うと、容堂は一豊の子孫ではありません。
じゃあ容堂は全く別の家から養子に来て山内家の家督を継いだのかと言われると実はそうではありません。
詳しいことは系図を作ってから話したいと思います。
※同じ家の人が続く場合には名前だけしか書きません。
山内康豊
↓
深尾重昌
↓
重照
↓
山内重直
↓
規重(のりしげ)
↓
豊敷 (とよのぶ)土佐藩8代藩主
↓
豊雍(とよちか)土佐藩9代藩主
↓
豊策(とよかず)土佐藩10代藩主
↓
豊著
↓
容堂(豊信)土佐藩15代藩主
系図としてはこんな感じです。
この系図の中に一豊の名前はなく、代わりに康豊という人が一番最初に来ています。
この康豊という人は何者なのかというと一豊の弟にあたります。
つまり、容堂は一豊の弟の子孫になるわけです。
容堂と一豊の血筋は全く無関係なわけではありません。
なので、容堂は全く別の家から来た人ではないことがわかります。
ただ、容堂は山内家の中でも分家の出身であり本来なら藩主になれるような身分ではありませんでした。
容堂の前の藩主である山内豊惇(とよあつ)が急死したことにより、容堂が藩主の座を継ぎました。
容堂と豊惇は従兄弟の関係にあたるのでそこまで遠い血縁関係ではありません。
容堂の次の藩主は、山内豊範(とよのり)というひとで、この人は豊惇の弟にあたります。
つまり、容堂にとって前の藩主も次の藩主も従兄弟になるわけです。
今回は容堂と一豊の血縁関係だけじゃなく、容堂の前と後の藩主との血縁関係についても軽く触れました。
ではまた~
参考にしたもの
Wikipedia
超ビジュアル幕末・維新人物大事典 西東社