明治時代の総理大臣【藩閥政府】
今現在でも続いている内閣制度は1885年(明治18年)に太政官制に代わって新しくできました。
内閣制度の発足に伴い、トップの官職として内閣総理大臣が置かれました。
明治時代に総理大臣になった人は、7人います。
・伊藤博文(長州藩出身)
・黒田清隆(薩摩藩出身)
・山縣有朋(長州藩出身)
・松方正義(薩摩藩出身)
・大隈重信(肥前藩出身)
・桂太郎(長州藩出身)
・西園寺公望(公家出身)
どこの藩出身者か書いてみましたが、特定の藩出身者ばかりですね。
これは藩閥といって倒幕に貢献した特定の藩の出身者が政府や陸海軍の要職を独占する状態を指します。
この藩閥政治は明治時代においてずっと続きました。
藩閥は薩長土肥の4藩の出身者で構成されていました。
薩⇒薩摩藩
長⇒長州藩
土⇒土佐藩
肥⇒肥前藩
総理大臣は、薩摩と長州出身者が圧倒的に占めていますね。
明治の総理で西園寺公望だけは公家出身なので藩閥ではないと思われがちですが、西園寺公望は戊辰戦争で新政府側として戦ったため、藩閥寄りの人です。
7人のうち、2回以上総理大臣になった人がいます。
・伊藤博文=4回
・山縣有朋=2回
・松方正義=2回
・大隈重信=2回(もう一回は大正時代のとき)
・桂太郎=3回(最後の一回は大正時代のとき)
・西園寺公望=2回
ほとんどの人が2回以上総理大臣になっていて、逆に1回しかなっていないのは黒田清隆しかいません。
黒田清隆は全総理大臣の中で、唯一19世紀に亡くなった人です。
19世紀は1801年から1900年までを指します。
黒田清隆は1900年に亡くなりました。
言い換えると、19世紀最後の年に亡くなったことになります。
伊藤博文は44歳という若さで総理大臣になりました。
この若さでの総理就任は明治から令和の今にまで続く総理の中で最年少です。
よく考えると44歳で国のトップになるってかなりすごいことですよね。
それだけ伊藤博文が優秀だったということです。
今回は軽く明治時代の総理大臣を取り上げてみました。
感想としてはさっきも言いましたが、
何回も総理大臣になっている人が多いなと感じました。
そしてこの時代は特に旧幕府側の人は総理大臣というポジションにつけない圧があるのかなとも思いました。
あくまで新政府側として幕府と戦った人たちが総理大臣になっています。
次回は大正期の総理大臣についてとりあげたいとおもいます。
ではまた~
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