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あなたとウィスキーを
部屋は散らかっていた。デスクに視線を落とし、目に入る、バッテリーの切れかかったタブレット、そしてその上から無造作に積まれた書類。反対の隅には空になって枯れたティーバッグと茶渋だけが残るマグカップがある。床には服が、靴が、鞄が所在無げに置かれ、小瓶の散乱した化粧台と乱雑に本が刺さった本棚は同じに見えた。
ギリギリで秩序を保っているその部屋は、彼女の心の内と同じように思えた。
朝から部屋着を着替えないままの伊山静奈は回転椅子に腰掛け、ロックグラスを片手にラップトップを立ち上げてデスクにつく。ほうと小さく吐き出した呼気は無機質な白い明かりに吸い込まれるように消えた。
頬杖を付きながら溜まった通知を順番に確認する。抱えている案件の内の一つは、既に原稿の締め切り期限を過ぎている。これから取り掛かろうとしている案件は最早期限に間に合うはずがなく、毛頭間に合わせる気もなかった。
彼女はペンをかんざし代わりに、黒い髪をまとめる。キーボードに指を添えると、スマホが鳴った。
「はい」
「例の取材の件だが」
「5丁目3番通り8号棟102号室のヒエナさんですね」
「うむ」
電話の相手は一瞬沈黙する。
「B案を採用する。三日後だ。支度をしておけ」
彼女は小さく呻き声が漏れるのを聞かれまいと息を詰めた。その間に思いを巡らす。溜まっている未処理の案件と、ここ数週間のことについて。
「やれるだろ?」
「はい」
「それから、君が溜めている案件も早く片付けてくれ」
「はい」
「ああ、あと。B案にはあいつも付ける。だからそんなに気負う必要はない」
「……はい」
編集担当は彼女の最後の返事を聞くとすぐに電話を切った。そちら側もさぞ忙しいのだろう。沢山の「ジャーナリスト」、いや、「工作員」を抱えて動かしているのだから。
その女、
伊山静奈は「DIS PRESS」の「ジャーナリスト」
という名の「反社会組織」の「工作員」であった。
彼女は胸の内で毒づきながらスマホを置き、ふとその散らかった部屋に目を向けた。散らかっている物、その全てが自分の歪んだ人生の象徴で、でもこんなに散らかしてしまっているという事実は「あいつ」の手に縋り、その歪んだ迷宮から出ていこうとする欲の表れではと思う。
彼女は再びスマホを手に取ると「レオ」と見出しのついた番号に指を置いた。
「はい、もしもし」
「例の取材の――」
「7丁目5番通り10号棟104号室のレオですよ」
レオと名乗った男は彼女の言葉を遮ってスラスラと述べる。そして今度は少し高い声で、少年のように付け足した。
「5丁目3番通り8号棟102号室のヒエナさん? いや、静奈さん?」
彼女の口から大きな溜息が漏れる。その音に鼓膜をくすぐられたレオはふふっと笑った。
「聞いた? B案のこと」
「ああ、聞いたよ。3日後だろ? 他に人員は? 俺たちだけか?」
「恐らく私たちだけ」
「そうか」
レオは口をつぐむ。
「それで、あのことについては考えてくれたか?」
レオが次にそう尋ねたとき、彼女は返答に詰まった。
「ごめん。まだ、私……」
「うん。もう少しゆっくり考えたらいいよ。自分のことは自分で決める。だろ?」
レオはそう言う。きっと電話の向こうでは笑みを浮かべているだろう。しかし、彼女はレオが「ゆっくり」と言ったとき、躊躇いを見せたことに気づいていた。
ゆっくり考えている時間なんて本当にあるだろうか?
組織を抜けようとしている人間に一体どれほどの猶予があるだろう?
彼女にとって「DIS PRESS」は長らく唯一の居場所だった。彼女の存在意義そのものだった。巨大な組織の中で、たった一人で、人を殺し、売り飛ばし、そうして得た汚い金で生きた。
まさか、組織の精鋭が、編集の犬が、もっと自由な世界に出ないかなんて、そんな馬鹿なこと、言ってくるはずがなかった。あのレオが。
「んで、調子はどうなんだ? 静奈」
レオが訊く。
「案件が溜まってる」
彼女は短く答える。
「俺も手を貸そうか?」
「いい。自分のことは自分でやるから」
「そうだな」
また、レオはふふっと笑う。
「なぁ、今も飲んでるんだろ?」
レオが言うので彼女はグラスを持ち上げ、揺すって氷の音を聞かせてやる。
「今度俺にも味見させてくれよ。君の秘蔵のウィスキー」
「今度、ね」
「ああ。……今度」
レオの声が低く聞こえる。穏やかな、晴れた日の澄んだ大海を思わせるような、そんな自由で暖かい光景が、声と共に目に浮かび、彼女は想像する。そこに未来はあるだろうか。
「ねぇ、レオ」
「ん?」
「やっぱり何でもない」
レオは追求しなかった。
それから電話を切るまで、レオは彼女に話した。何でもないことを、何でもないように。そうして二人で無意味に時間を溶かした。少しだけ楽しいと思ってしまった。
「じゃあ、三日後よろしく、静奈」
「うん、よろしく、レオ」
彼女は端末上の実行ボタンに触れた。やはり反応はない。システムが壊れているらしい。
カビ臭い民家のリビングに立ち、彼女は唇を噛んだ。状況は良いとは言えなかった。
「静奈、まだダメなのか?」
イヤーピースからレオの声が鳴る。
「全然ダメ」
「まずいな」
編集部の指示は、この民家に隠されているコンピュータからデータを抜き出せというものだ。
コンピュータは見つけた。しかし、それを取り出すためのシステムが動かない。もう既に対象のコンピュータからは不審アクセスの警告が出ている。
本来ならばさっさと作業を終えてこんな廃屋は後にしているはずだった。外で退路を確保し、待機しているレオの声はどこか焦っているように聞こえる。
「直せるかもしれない」
「そんな時間あるのか?」
「わからない」
「わからないって……」
レオは迷っていた。こんな辺鄙な場所だ。今更コンピュータの持ち主が戻ってくるとは思えない。それなら、中に戻って彼女を手伝うべきではないか。
「えっ」
レオがそんなことを考えていたとき、彼女が悲鳴ともつかない小さな驚きを喉から漏らした。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
「本当に?」
彼女がその問いかけに答えないことをレオは不安に思った。
「私のウィスキー、あんたにあげる」
「一体何の話を――」
何も聞こえなくなった。自分の言葉の続きさえ失われた。目の前が真っ赤になったのを認識したときには既にその家は崩れ去った後だった。
家も、彼女も、たった一度の轟音と熱風で吹き飛んだ。
たった一瞬の爆発で。
彼女の名前を口にしようとすると、血の味がした。
「またあの女の夢を見ていたのか?」
編集長は病室のベッドサイドからレオを見下ろしていた。
レオは無視した。
「死んだ人間は蘇らない。早く忘れることだな」
その冷淡な物言いに彼女の死を悲しむ気持ちは微塵も感じられない。編集長にとって、我々ジャーナリストなどチェスのポーンでしかないのだ。捨てるも生かすも、自分では決められない。
「お前、死にたいと思うか?」
ボスは死に損なったレオに囁く。その質問は、お前は好いた女の後を追うのかと訊いている。
「いいえ」
するとボスは満足そうに口許だけ笑った。レオは、刺し殺してやりたいと、そう思わずにはいられなかった。
レオと彼女の関係は恋なんて生やさしいものじゃなかった。世界には二人だけだなんて、そんなことを思えたならどれほど幸せだったろうかと考える。
湧き出てくる独占欲と依存心を騙して、今その瞬間だけ愛しているかのように、語り合い、触れ合った。
ずっとそうしていれば良かったのだ。
明日も一緒にいたいだなんて、最初から許されるはずがなかった。
「編集長。今度一緒に酒でもどうです?」
「何のお誘いかな? 我々は互いに情をかけたり、馴れ合ったりはしないものだ」
「ええ、わかっていますとも」
世のため、大義のため、自らの欲のため。二人のうちどちらか一方を殺してでも、破らせない約束。
レオはふふっと笑みをこぼしながら、声を低めて言った。
「それでも是非、あなたと酌み交わしたいウィスキーがあるんですよ」