第三灰 『砂のように舞え』
――数時間前。
「おいお前、ここの隊長はどこにいる」
シワのない制服をきっちりと着こなした男に突然声を掛けられたアントスはびくりと肩を震わせた。男のすぐ後方に視線を投げると、小馬鹿にしたようなもう一つの視線とかち合う。
「う、裏手に。そこの、三番棟の。昨日、配管が壊れたから」
洗濯から戻ってきたばかりで手足ずぶ濡れのままのアントスは不安げにカゴを抱え直し、答えた。まだ泡の残るシャツやらズボンやらが無造作に突っ込まれたその中身を指先で突つきながら考える。自分達の制服よりいくらか金のかかっていそうな、装飾付きの上着を身につけ、軽蔑を隠しもしない明らかに見下したような態度の男たちは、交替の第五部隊に違いない。もっとも、自分に対してそんな態度を取る者は外部の人間に限ったことではないのだが。
「おい金髪。隊長を呼んでこい。引き継ぎだ」
少し後ろに控えていた男がいかにも腰巾着らしく声を荒らげると、同時に自分の背中に手が置かれる感触がある。
「みんなに荷物をまとめるように言ってくれないか、アントス」
それは全くもって嬉しい仕事ではないが、ここにいるよりはマシに違いなかった。アントスは頷き、思いがけず姿を現した隊長の指示に従ってその場を離れる。
「あなたがブラッカ隊長か?」
「ああ」
遠のいていく会話に聞き耳を立てる。隊長はなんて気の抜けた返事をするのだろう。これだから第七部隊は舐められる。ジメジメとぬかるんだ地面を這う虫ケラ程度にしか思われないのだ。
ふと顔を上げると訝しげにこちらを見る仲間と目があった。その表情を見るに、自分はまたブツブツと「いかにも陰気臭く」独り言を言っていたらしい。
「だ、第五部隊の奴らが来た。荷物をまとめろって、隊長が」
恥ずかしさを殺し、精一杯の声量でそう言うと声を枯らしたニワトリのような音が飛び出る。また嘲笑される。変人だと。
しかし目の前の彼は僅かに片眉を吊り上げるとフッと息を漏らし、「三ヶ月ぶりの休暇だー!」と嬉しそうに笑いかけてきた。アントスの同意を求めているようにも見える。が、帰る家などないアントスにとっては全く関係のない話だ。
「お前は今回もここに残るのか?」
「僕はいつもそうだ」
アントスはぼそぼそと答える。洗濯カゴから水が滴り指を伝う。不快だ。
彼は少し首を傾げ一瞬何かを考えたように見えた。同情なら必要ない。大抵の人間はそうだ。アントスの予知能力を気持ち悪がりあくまで遠巻きに、群れて眺めて心無い言葉を吐くか、あるいはアントスたち一族が辿った悲惨な運命を押し付けがましく嘆くか。
目の前の彼は――
「じゃあ、うちに来るか? 姉さんも嫌とは言わないと思うし」
そう言ってアントスの表情をうかがうと、ニッと白い歯を覗かせて笑う。
「お前結構美形だしな。むしろ喜ばれるかも」
「な、なんで?」
――なぜ僕にそこまでする? そこに何かメリットがあるとはとても思えない。
「僕……占いとか、はできないよ」
「あー、知ってるよ。じゃなかったらこんな絶妙に最悪なタイミングで洗濯なんかしないだろ」
彼はチラリと視線を下げると「出発までには絶対乾かないだろうなぁ」とぼやいた。
「まぁとにかくだ。年がら年中ずっとこんなところに閉じ込められてたらマジで気が狂うぞ?」
アントスはあくまで明るい風を装って熱弁する仲間を黙って見つめた。大袈裟な身振り手振りで、彼はまるで必死に何かを訴えているようだ。まだ言葉に出来ない何かを。
アントスは彼に背を向けた。こういうのは苦手だ。都合の良い時だけ、都合の良い相手に、お前の為に俺を助けろとでも言いたげに、ものを押し付けてくる人がいる。そういう奴らはアントスなら自分の不遇をわかってくれると信じて疑わない。自分より酷い目に遭ってきた人間ならきっと自分の痛みを受け入れられるとでも思っているのだ。そんなのは誤解だ。先にアントスを裏切ったのは彼らだ。
「実は」
彼はアントスの背中に言った。
「先週、オヤジが死んだらしいんだ。姉さんは一人でオヤジの埋葬をしなきゃならなかった。姉さんは俺の最後の肉親で……だから……」
彼は黙り込んだ。何を言っても無駄だと思ったのか、単にその続きに相応しい言葉が出てこなかったのか。
結局彼もまた、この七番目の部隊に入れられるような生い立ちに違いなかった。城の奴らは多民族国家を謳いながらも『純血』かそうでないかで勝手に他人の結末を決める。アントスは向き直った。
「き、君の家族の事情なんて僕は、知らない。でも、熱いカブのスープは飲みたい」
「ミルク入りのだろう? もちろんだぜ! 姉さんのは格別だぞ」
彼は笑った。目尻にシワが寄る。
「そのカゴかせよ。俺がなんとか乾かしてやる。お前は伝言の仕事があるだろ」
代わるならそっちをやって欲しかったとは言わない。
「なぁ、ジャッキーお手製の乾燥剤使っても良いか?」
去り際、彼はそんなことを訊く。アントスはふるふるとかぶりを振る。
「そうだよな。あれ失敗するとありえないくらい縮むし。でも10回に3回くらいの確率でカラカラに乾くぞ」
カラカラと楽しそうな彼の声は少しずつ遠ざかっていった。
事務室のドアノブを握ったとき、思いのほか手に力が入っていたことに気づいたダーウィは溜息をついた。後ろを付いてくるもう一人の隊長とその腰巾着に気づかれないように。
「必要な資料は全部ここにある。あとで見てくれ」
ダーウィが開いた扉の隙間に第五部隊の男は指を掛ける。男にしてみれば中の様子をもっとよく見たいだけなのだが、ダーウィはそのまま扉を勢いよく閉めたい衝動に駆られた。
「整えているようだな」
男が厳かに言い放ったその言葉をダーウィは心の中で補う。『野蛮人のわりには』
しかしその必要はなかった。
「意外と几帳面なんだな。亜族のくせに」
「言葉を選んだ方が良いぞ、ケン」
男は腰巾着野郎の発言をたしなめたが、そこにケンと呼ばれた男のセリフを否定するような内容は含まれていない。
第七部隊が休暇でキャンプを空ける間、代わりに留守を守ってくれるのは彼ら第五部隊のはずなのだ。しかし守るという表現は全くもって相応しくないだろう。彼らが到着してからまだ一時間と経っていないにもかかわらず、ダーウィはイライラさせられっぱなしだった。
「ダーウィ!」
次の棟に移ろうと外に出たところで不意に呼びかけられる。振り向くと十メートルほど先にロージャが見える。彼はなおも声を張り上げて何かを言おうとしたが、ダーウィが取り込み中であることに気づいたのか、手で合図を送るだけにとどめた。どうやら配管の修理は無事終了したらしい。続けてダーウィが一段落ついたら応援に来て欲しいと合図するとロージャは声を立てて笑った。相手が二人ならこちらも二人で挑まねばなるまい。
ふと、ダーウィは二人の男達が不思議そうに自分を見ているのを感じた。
「あれはなんだ?」
ケンが呟くともう一方が答える。
「我々の言葉を知らないのだろう。それか知恵遅れかもしれん。亜族の人間には言葉が使えない阿呆もいると聞く。だから特別に簡略化したコミュニケーション方があるのだろう?」
当然そうであるに違いないというように真っ直ぐにダーウィを見遣る男に悪気はなさそうだ。
「ブラッカ隊長、あなたは良くやっている」
彼はそう言いながらダーウィの頭髪に目をやり、そして目を合わせると口許をひくつかせて僅かに微笑みを作って見せた。
典型的なメラカエ人――小麦色の肌で、栗色の髪。瞳の色は薄茶で垂れ目がちの大きな目。口は小さく、彫りは深くないが鼻筋は高く見える。――つまり誰から見ても『純血』の風貌をした二人の男は互いに顔を見合わせ、視線を交わすとまたダーウィを見る。そして近づく足音に振り返り、ロージャを認めてほくそ笑んだ。
この小一時間、キャンプを行き交う第七部隊の人間を一瞥しては浮かべられるその笑みに、ダーウィは無性に腹が立って仕方がない。
「あんたも大変だなぁ」
腰巾着野郎、ケンの一言に思わず拳を握る自分がいる。しかし、それを振り下ろせる場所も資格もダーウィにはなかった。