【読書感想】読書感想文に対して思うこと-『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
noteで「#読書感想文」や「#読書日記」などと検索すれば、
多くの人が、いろんな書籍で何らかの文章を書いていることがわかる。
しかし幾つか読むと、何か物足りないと思うものが散見されるのである。
もちろん、何を書いても、何を思っても自由であるが、
欲しがりな私からすれば、どこか寂しさを感じてしまう。
そもそも、読書感想文や読書日記とは何か。
その本に惹かれたフレーズを書き残すでも、内容を整理することでも、
当然、何でも良いと思うが、
私はやはり、そういった類のものには、物足りなさを感じるのである。
かくいう私が、満足な文章を書いているかといえば、
読書感想文や読書日記も、
決定打に欠けると言っても良い。
謙遜ではなく、
私には事実、ある作品を評価をするほどの教養が不足しているのである。
そのため結局のところ、その本に対する批評が浮いてしまうのである。
私にとって理想的な読書感想文とは、
その本にきちんと向き合った結果である、
その人なりの解釈や解説である。
みんなに対しても「読書感想たるは、こうであれ」というものではなく、
あくまで、私が本に向き合うことに対しての目的として読んでほしい。
私は、単にフレーズを書き残すことや、内容やバックグラウンドを整理することに対して、何が物足りないと思うのか。
それは、本の「構造的理解」に対する物足りなさである。
まずは、その本が持っているモチーフは何か、
作者が書いた意図とは何か、(ここも難しいのである)
そして、なぜそれが「現在性」という読者にとって魅力的であるのか、
また、我々の普遍的な本性に対するどんな問題を孕んでいるのか、
そんなことを、
一冊の本と、読者の人生体験からの一端でもいいので、
その作品が持つ可能性としての、その人なりの解釈が読みたいのである。
再度述べるが、読書感想文や読書日記は何を書いてもいいのであるが、
ここで考えたいのが、なぜ、本の一部分に対する嗜好的感想や、
内容の整理をするものが氾濫しているのか。
私は、三宅香帆さんが書かれた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
という本を最近読んだ。
この書籍は店頭に置かれるほど、注目されているのであるが、
その本に少しヒントがあるのではないかと考える。
この本によれば、「時間がなくて本が読めない」というのは今に始まった事ではなく、
今現在、本が斜陽となっている原因は、
「情報化社会」「自己実現を果たす大人像」「ファスト教養」といった、
スマホが普及したことや、社会としてどのような人間的価値が求められるようになったのか
という時代背景に依ると考察している。
(本に関する内容は自分で読んでみて欲しい)
そのような背景の中で、読書は「ノイズ」になってしまったと言う。
インターネットでは知りたい情報がストレートにわかるのに対して、
書籍では、知りたい情報の周りの情報や関連する情報なども載っており、
知りたい情報以外のものが「ノイズ」になってしまっていると指摘している。
(これは社会が求める市場価値のある人物像に由来する。)
私は、読書の方法に対しても、そしてアウトプットに対しても、
少なからず「ノイズ」があるのではないかと考える。
本書では、そのノイズが教養につながると指摘していたが、
ただ書籍を読んだだけでは、教養につながらないと考える。
書籍を読んでいない人に比べれば、その差は出るかもしれないが、
ある書籍の旨みを活かした読書ができているかどうかは、また別の問題である。
得られる「情報」はノイズがあることは、インターネット/書籍
という構造で理解できるが、
読者、受け手の思考にも、
何を「読めるのか」、何を「読みたかったのか」という観点から
ノイズがあると考える。
要するに、私が言いたいことは、
本の一部分に対する嗜好的感想や、内容の整理をする読書感想文等は、
「ファスト読書感想」なるものになってしまっているのではないだろうか。
「私が読みたいと思った色眼鏡」で本を読み、
「(社会的にか個人的か)こういう本を読んでる私が好き」というような文章は、結局のところ、書籍のある部分をノイズとして処理してしまった
感想になってしまうのではないだろうか。
また、長い文章は好まれないという
インターネットという環境が求める価値基準から、
ノイズを排除した文章を書かされているということも考えうる。
再三で申し訳ないが、
読書感想なんぞ何を書いてもいいのであるが、
しかし、「ファスト読書感想」が本当に良いものかは考えるべき問題ではないだろうか。
ある1冊を構造的に理解することは大変難しい。
私も、どの1冊も、また本に限らず映画などでも
構造的に理解できたと思うものはない。
そしてまた、構造的に理解できる人に憧れる。
これは自分に言い聞かせる文言であるが、
結果的に、「ファスト読書感想」になってしまうのは構わない。
ただ、「ファスト読書感想」ではなく、
構造的な理解を目指す志だけは持ち続けたい。
我々は楽な方に、あらゆる考えるべきことを
ノイズとして処理してしまっているのではないか。
まずは意識するという前提に立つことが大事なのだろうと思う。
感想とは何でもいい。「面白かった」の一言でも良いが、
そういった「感想文」ではなく、
読書解釈文というべきか、読書解説文というべきものを
ただ、自分が求めているというだけに終始するものだと、
文章を書き終えて気づくのである。
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