谷川俊太郎から学ぶ『遊び心』を持って見る事と耳を澄ます『想像力』を持つ事
1.ふだんの暮らしを『遊び心』を持って見る事
年のせいか何かに追われるようにトレンドを追いかけずただ好きなものを自分のペースでゆっくり楽しむようになった。
最近は小説や文学書よりエッセイや詩を読んでいる時間が多くなった。谷川俊太郎さん(以下敬称略)が亡くなり、彼の詩を読み返すと「こんな風に生きたい」という気持ちになる。
「ふだんの暮らしを「遊び心」を持って見る事」
谷川俊太郎のちょっとくだらない詩が好きだ。「ことばあそびうた」(福音館書店)と「わらべうた」。中でも「おならうた」は短い言葉と音の組み合わせが絶妙で、これぞ天才と思った。
祖父は良くおならをした。99歳まで生きた曾祖母もよくおならをした。私は曾祖母が「ぶ」とおならをするので「ブーばぁ」と呼んでいた。
失礼な曾孫だった。
祖父も多様なおならをして、その度にお尻に開いた手を当て素早く閉じておならを包み、私の鼻先に持ってきた。
音の出るおならは、あまり匂いはなかった。「すかして へ」が強烈に臭かった。臭いけど笑えた。今、思い出すと幸せなエピソードだ。
和田誠さんの絵がかわいい「すき(詩の風景)谷川俊太郎詩集」(理論社)も、詩の風景を教えてくれる。
「すき」という詩の最初の一部を引用すると…
「ゆうがたのはやしがすき」は現実に体験した事を思い出して多くの人が共感できる。しかし「まよってるありんこ」が「詩の風景」だとは気がつかなかった。
子供の頃、石につまずいてソフトクリームを落とした。落としたソフトを見ると、すぐさま蟻が列をなして集まってきた。
その中に「まよっているありんこ」がいた気がする。今度、蟻の列をみつけたら「まよっているありんこ」を探して見てみたいと思う。
つぎの「りんごをまるごとかじるのがすき」はわかる。しかし今も昔もコケて「ひざこぞうすりむく」のは好きではない。近頃は、年のせいか、なかなか治らない。それでも次回「ひざこぞうをすりむいたら」しみじみ眺めてみたい。もしかしたら「好き」と思うかもしれない。
何もない日常でも「どうでもいいこと」でも。詩の心を持ってしみじみ眺めると、自分の「好き」がみつかるかもしれない。
「常識」とか「周囲の目」とか忘れて、子供の様な好奇心で、普段の暮らしを遊び心を持って見る。
すると「詩の風景」に変身し「何もない」「くだらない」と思っていた「人生」の一コマも楽しくなるような気がする。
2.耳を澄ます『想像力』を持つ事
小学校の時、日直で毎日の日誌を書かなければいけなかった。
「今日は○○して楽しかったです」と先生が読んで前向きな姿勢を感じるように書かなければいけないやつだった。
しかし、その日は別に何もなかった。何もなかったので何も書く事がない。「何も書く事ありません」と書くと叱られるので、目を閉じて考えた。するといろいろな音が聞こえたきた。誰かが廊下を走る音。外でサッカーボールを蹴る音。野球のバットが球を打つ音。女の子達が廊下の奥で「キャッキャッ」言っている声。
夕暮れのカラスの鳴き声。国道を走るトラックの音。風が窓を揺らす音。集中すると教室の時計の音も、自分の鉛筆の「さらさら」書く音も聞こえた。とにかく聞こえた音を書いて「ひとり静か」と書いて出した。
すると翌日、親が学校に呼び出された。先生は母に「神経質過ぎる、何か家庭に問題はないか?変な行動はないか?」と聞かれたらしい。ショックだった。自分は「変な子」らしい。その時思った。自分ではまっとうに生きているつもりでも、今でも親戚にも教えている学生にも「変わっている」とか言われる。どこが変わっているか、わからない。
谷川俊太郎の「みみをすます」を最初読んで、救われた。そして自分に足りないものが理解できた。
放課後「耳を澄ます」音の発見だけでは、先生から親の放置、ネグレクト、神経質を心配されたのかも知れない。
確かに祖父のおならを嗅がされ、笑う子供は変な子だ。そんな時想像力を働かして、その音の風景をちゃんと表現すれば良かった。そうすれば詩の風景になる。先生が思わず感心してしまうくらいの嘘日誌を書けば良かった。
天才詩人達は日常の何でもない風景と音の組み合わせで、読者を巻き込む詩の風景を作り出し、心の奥に響かせる。
誰もが知る有名な俳句も印象的な音と風景の組み合わせだ。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」松尾芭蕉
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」正岡子規
「ふむふむ」詩を書かなくても「みみをすませ」目をつぶって想像力を働かせると心の奥に響く詩の世界を味わうことができる。「みみをすます」となんでもない普段の暮らしに想像力がプラスされおもしろい。
朝早く郊外の林まで散歩をすると様々な鳥のさえずりが聞こえる。目をつぶって聞くと平面的な日常空間が広がり、自然の中、大きな世界の中で生きている事を実感して心が晴れる。
先生に「神経質で変な子」と思われた日誌を書いたあの日、私の心は、少し広がり晴れ晴れしていた。なのに表現できず問題児扱いされた。
詩集「みみをすます」は16ページもある長大な詩だ。一部を引用して説明を試みるが、読んで感じてもらうのが一番。興味を持たれたらぜひ詩集で読んでほしい。
『想像力』拡大のヒント1:自然の音から様々な人間の音へ
詩は、「きのうのあまだれ」に耳を澄ます事から始まり「いつからつづいてきたともしれぬひとびとのあしおと」に耳を澄ます。何のことだろうと読んでいくと、聞こえてくるのは、ハイヒール、ながぐつ、ぽっくり、ほうば、あみあげ、ぞうり‥‥と様々な人々の足音。詩はその人物の歩く姿とその人物の住む世界まで想像させる。
※ぽっくり(木履):少女がはく、台が前のめりで後ろが円く、底をえぐった黒または朱の漆塗りの下駄。
※ほうば(朴歯):桐材の台に、朴の木の歯を差した下駄。
そして詩は、再び自然の音、蛇の動き、木の葉の揺れ、消えかかる火のくすぶりの音にまで、耳を澄ます。心がゆったりし世界が広がる。
谷川俊太郎は、限られた風景と音の組み合わせで読者の想像力を無限に拡張し続ける真の「詩人」だと思う。
『想像力』拡大のヒント2:人類誕生前から今に至る音へ
しかし私が驚いたのは、次からの展開。谷川俊太郎は人類の生まれる前の世界へ時空を飛ばし、耳を澄まし人類の誕生前の世界と自分自身の誕生の世界を重ね合わせる。限りなく遠い世界と自分の日常を、詩の風景で繋いでいく。その一部を引用すると
ダイナミックな恐竜が跋扈する世界を体験したかと思うと、いつのまにか自分の産声の世界へ入る。マクロからミクロへの大胆な視点の変化が楽しく面白い。
私的でありながら普遍的な子供の頃、感じた世界の音がつづられていく。やがて詩の視点は、「おじいさんの咳」や「おばあさんの機織り機の音」に続き、「竹藪を渡る風」にのり、「アーメン」「なんまいだ」「小学校の足踏みオルガン」の音へ‥‥。そこから詩の世界は社会の中の様々な人の様々な生活の音へと「みみをすます」。
『想像力』拡大のヒント3:古代から続く人間の葛藤の声へ
その先の詩は、人間の生活から感情の葛藤、支配するものとされるものが生み出す悲劇、争い、戦争、原爆…と発展し、ハリウッド映画の超大作のようなスケールで普遍的な人間ドラマがダイナミックに展開する。
最初の一部だけ引用すると。
詩の途中に入る()付の注意書きが心に深く刺さる。
ここから詩はさらに、二転三転していく。
「みみをすます」という単純なひとつの行為で、時空を超える壮大な世界と私的日常世界を深いテーマでつなぎ描き切る手腕に圧倒される。
やはり谷川俊太郎はとんでもない詩人だったと再認識した詩だった。
そして詩の最後、谷川俊太郎の多くの詩は、
日常を深く生きる実感と明日への希望へとつながっている。
現実を見つめ、音を聞く事から始まる人間の想像の「詩の風景」があるからこそ、生きにくい世界を変え、豊かに生きる事ができる。
谷川俊太郎の詩は、そんな確信と勇気と元気を与えてくれる。
以前書いた、谷川俊太郎の詩についての記事です。