「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」と寺山修司「幸福論」から学ぶ「他人を不幸にしない生き方」
はじめに 満員電車で疲れた自分が「極悪女王」の顔と重なる
疲れていた。帰りの満員電車で、つり革を持ちフラッとめまいがした。後ろに立っている人の肘に当たったらしい。次の瞬間、悪意の籠った強さで、肘で強く押し返された。
びっくりすると同時にイラっとした。衝動的な怒りとも言っていい。
私はときどき感情リテラシー(感情を客観的に言葉で表現し認識する能力)を失ってしまう。そこで一息ついて
「あゝこういう感情なのか」と朝の満員電車で、声を荒げて諍いを起こす人の気持ちを理解した。理解すると一体どんな人にそんな悪意を持たれたのか?
そっと地下鉄の車窓に写る顔を見た。眼鏡をかけた真面目そうな痩せた高校生が一心にスマホでゲームをしていた。
目の前に「極悪女王」の広告があった。
そのモノクロ写真のゆりあんレトリィバァは、松本香でも、ダンプ松本でもなく電車の中のごく普通の私たちのようだった。
モノクロ写真の彼女が、ダンプ松本のような暴力性と怒りを表現するようには思えない。
1.ジョーカー(私)の中のシャドウを自覚する
映画「ジョーカー2」は『ベルヴィル・ランデブー』(2002)、『イリュージョニスト』(2010)を監督しているフランスの作家シルヴァン・ショメのアニメから始まる。
タイトルは「ME and MY SHADOW」私と影の物語。
シャドウというキャラクター(元型)は、カール・グスタフ・ユング(スイスの精神科医・心理学者)が唱えた神話や民間伝承に現れる元型の一つだ。ユング心理学では自我の理想と一致しない人格の無意識の側面であり、自我が影に抵抗して投影し、影との葛藤を引き起こす。
集合的無意識の世界では全ての人が持ち、神話や伝承に必ず出てくる敵役だ。
映画「ジョーカー」はアメコミのキャラクターを、現実世界にいかに落とし込むか?にチャレンジしていると思っていたが、どうやら「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は人の深層心理を感情の側面から描く寓話的世界らしい。
2.ジョーカーは全ての人の心の中に住む破壊と創造のトリックスター
スヌーピーの名言集の中に
というのがあるが、「ジョーカー」はジョーカーを引いてしまったまま孤立した人間のように感じた。
家庭は貧困、母は精神疾患、父の虐待で自分自身も精神疾患を持つ。
夢は「人を笑顔にするコメディアン」だが才能の欠如や妄想癖が災いし失業…。
良いカードは一部の人間に独占され、大衆には富裕層が手にしない大量のジョーカーが、不特定多数の人の中を巡り巡っている。
そもそも「ジョーカー」の変装は「道化」。
ユング(スイスの精神科医・心理学者)が唱えた神話や民間伝承に現れる元型で言う所のトリックスター。神話や物語の中で、神や社会秩序を破壊し、物語を創造的に展開させていく。
トリックスターであるジョーカーの欲望を、前向きに社会的に変換するために何が必要なのか。
ふと、昔読んだ寺山修司の「幸福論-裏町人生版-」を思い出した。
文庫の裏には
「ジョーカー」のような裏町に住む差別された人間が幸福になるには、
敵の罠に嵌る事なく、
「己がいかに不幸であるか表現すること」
「自分の想像力の渦を巻き起こさせる事」
3.変装は日常的冒険:妄想から想像力の表現としてのミュージカル
ここで話は少し逸れるが、私はクリストファー・ノーランの「ダークナイト」(2008)を見て、街を混乱の渦に落とし「バットマンが市民の命を守るなら、その正体を明かせ」というジョーカーの要求が正当だと思った。
正義のマスクをつけ、建前は市民の平和を守るバットマンは富裕層で、大企業の利益を守るためマフィアとつながるライバルの中国企業の実業家を拉致する。
正義の味方・バットマンは、マスクとスーツで完全に正体を隠し、悪であるジョーカーは素顔にメイクで戦いを挑む無敵の人。
監督・脚本のクリストファー・ノーランは、2001年の9・11以降の「アメリカの正義は本当に正義なのか?」という問いをジョーカーというキャラクターを通して追求しているように感じた。
素顔にメイクのジョーカーとマスクにスーツで正体を隠す正義のバッドマン。寺山修司の「幸福論」の中に「演技」の項目があり、監視管理が進む社会の中では「いかに自分を隠すか」という事を表現の特色としている。
変装、虚構の中では「隠す」努力よりも「いかに自分を現すか」を考える自由さを持っていると語られる。
バッドマンは現実生活の中の「社会のシステムや本質概念を尊重する私」であり、ジョーカーは社会的概念を超えて「隠す」私ではなく「自分を表す」表現する私。
「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」を見て一番に感じたのはレディー・ガガの素顔の美しさ。
レディー・ガガが「ジョーカー2」でいつものメイクではない化粧で、リー・クインゼル(通称ハーレイ・クイン)に変装し「ジョーカー」に共感し、愛情を持って歌い、踊る。
痩せてガリガリのアーサー・フレック(ホアンキン・フェニックス)は、想像の中でジョーカーを演じながら、リー・クインゼル(レディーガガ)と歌い踊る。
その曲の選曲が良い。中でもまさかのビージーズの映画「小さな恋のメロディ」でも使われた「To Love Somebody」
カーペンターズの名曲「(They Long To Be) Close To You」数々の音楽や映画の幸福な記憶を呼び覚ます。
ジョーカーの妄想と片付けられがちなミュージカルシーンだが、不遇な現実しかなかったアーサー・フレック(ジョーカー)にとって唯一現実で出会ったハーレイ・リー・クインゼルとの幸福な時間のように思えて切なかった。
4.模倣犯を防ぐ根本的な解決:他人を不幸にしない生き方
問題は、監視や管理の中で、大衆が社会の規制や概念に捉えられ「自分を隠す」事を余儀なくされる社会は常にストレスフルだ。
そこから映画を口実にした模倣犯が生まれる。映画の虚構を現実に持ち込み、自分の行動を正当化する。
最後にまた寺山修司の言葉を引用する。
寺山修司の言う人生の唯一のルールは「他人を不幸にしないこと」
「他人を不幸にしないために」大切なのは規制、管理・監視、抑圧、排除ではなく、表現の自由を確保する事。
と同時に、老若男女が、感情リテラシー(感情を言語化し、自分自身で客観的に管理する)とメディアリテラシー(メディアを押し付けられたままでなく、客観的に主体的に思考し読み解く力)を身につける事。
何もクリエイターになるという事だけが唯一の事ではない。このnoteの世界でも、人に見せない日記でもメモでも形にする事で、自分の不幸を認識し形にする事。形になった不幸は対処する事が出来、幸せにつながる道が見えるかもしれない。
そして愛する人と同じように「他人を傷つけない生き方」から生まれる自分の中の変革が、非暴力で自由で開放された世の中につながればと願う。