聞こえない音楽を聞いてしまった。時速250キロで走行する新幹線の中で、僕は聞こえないはずの音楽を聞いた。聞くつもりはなかったし、まさかこんなところで演奏されているなんて思いもしなかった。どうやら、音楽は若い女性の車掌さんから漏れ出てくるらしかった。 「切符を拝見させていただきます」 そう告げた彼女を追いかけていた。今となってはどうでもいいような用件だけど、とにかく用があって車掌さんを探していたのだ。当然、最後尾に彼女はいるはずだった。客室を出て狭い通路をたどった先に明かり
雨の後だった。 ちょうど電線がブルって震えて、耳がしんと静まるような昼下がり。風は上空で手をつないでコーラスしてる。 「おとうさん、見て!」 5歳の娘に叩かれて、目を上げた。 「大変なの! ほら、あそこ!!」 娘が指さした先にはガラス張りのビル。ビルはまるで優しい天使のように、羽をたたみ膝を抱えて静止していた。白い雲と青空を写して光っている。 「大変? ビルが?」 と、僕は首を傾げた。いったい何が大変なんだろう。 「大変なの、おとうさん」 娘は口をあんぐり開けて言った
乗客はいなかった。 ただの一人も。 バスは空っぽの胴体を恐竜みたいにブルンと振って、商店街の脇に停車している。 空は真夏みたいに白く光り、雨に打たれたアスファルトが青空に向かって静かに呼吸していた。 さっきまでの雨がうそみたいだ。 どうしてだろうと、僕は思う。どうして誰も気づかない? 窓からのぞいたバスの中に、虹がかかっていた。 端から端まで座席を埋め尽くして、七色の虹がほろほろと光っている。 運転手さんが昼食のホットドックの包みをグシャっと潰し、ブルンとエンジンをかけ
二人が望遠鏡を握ってなかったら、きっと気づかなかった。 マンションの2階、角部屋。 ベランダに敷物を敷いた子どもが二人、雨雲に向かって望遠鏡を覗き込んでた。 もちろん、子どもたちは歓声なんてあげてない。 空はグレーの絵の具をバケツごとひっくり返したようで、悪いけど100パーセント星は見えない。 よりによってこんな日に天体観測なんて。 僕は買い物帰りのエコバックを手に、「あー」と声を漏らしてその場から動けなかった。 「ちょっとぐらい雲の切れ間があるんじゃない?」 とか、
ねむい街に 流れ星がおちた 街はきらめいて コンビニも街灯もわずかに残った電話ボックスも みんな ひとりでに夜を纏う この手に握ったスマートフォンさえ もう 誰の顔も心も映さない めざめれば そこは ありふれた朝なんだ いつもとおなじ 街が光に満ちていくような
宴会というわけじゃなくて、かといって骨を拾っているわけでもない。 まるで、そこはちょっとした天国のよう。 この窓からのぞける、向かいのベランダに三人が座り込んでいた。 一人は頭にタオルを巻き、もう一人はタバコをくわえ、最後の一人は缶コーヒー。 作業員のお兄さんたちが、マンションの一室をリフォームしていた。 三人は休憩中で、向かいのベランダに座り込んで目を細めていたんだ。 そこに暖かな日差しはなく、もちろん淡い月光もなければ雄大な景色もない。 あるものといえば、降りしきる
4歳の娘が泣いている。 ひっくひっくと泣きじゃくり、目をこすりながら僕の布団に入ってきてこう言う。 「起きてって言っても、お母さん起きないの」 枕元の時計を見ると、朝の5時。 なんでこんな時間に? あーそうかと僕は思う。 無理もなかった。 今日はこの子の誕生日なんだ。 「5歳なの」 そう言って、娘は僕の胸にすとんと頬を押しつけてくる。 「おとうさん、わたし、まだ生まれてないの?」 「生まれてるよ」と、僕は笑って言った。「生まれてピンピンしてる」 「でも、お母さん起
桜はすっかり青々してるのに、大学生のカップルがちょこんと腰を下ろしてる。 透きとおる4月の光に包まれた公園の隅っこ、緑色に揺れる桜の木の下で二人はほんのり頬をピンクに染めている。 女の子は魔法瓶を手にして、男の子はちょうど蓋を逆さまにかぶせたところ。 ろくすっぽ互いを見もしないから、ほら魔法瓶を水が伝っていく。 「何を話しているんだろう」 男の子が口を開きかけて、結局は黙ってしまった。 まるで、難解な詩みたいな会話だ。 二人は句読点を打つように空を仰ぐ。 「このあと、
誰一人振り向かなかった。 だって、声がなかったから。 きっと、声のない温かな涙だったんだ。 いつも目にしてるあのショッピングモールのてっぺん、 だだっ広い駐車場の端っこに赤いマフラー巻いた男の子。 ほら、風がナイフみたいにうなりを上げて そう、そいつが涙の犯人ってわけ。 男の子はぼんやりと空を仰ぐ。 彼がさっきまで手にしていた、 手から離れた風船はたぶん空の涙で、 かすかに空気を揺らしながら青空という頬を伝っていく。 今確かに目にしている、 これと同じ空がもう二度とやっ
真っ白な時間。つまりは朝の6時30分。まだ何も知らない積み木のように、ひっそりと角が揃った静かな時間。 神社の前で立ち止まって、僕はどうしてもその人に目がいってしまう。 『20』という冠かぶった着物姿。 両脇にはよく似た顔の両親がいて、「さぁ、お参り行こう」と封を切ったばかりの塗り絵のような白い息を吐き出している。 「今日はかみさま大忙しだ」 僕は微笑み、それからまた目が釘づけになる。 参道を歩いていく『20』に向かって手を合わせていたからだ。多分、70歳ぐらい。ひょっ
今朝 春の寝息を聞いた 降りつもった雪の上で聞いた 黄色い折り紙おったように 子どもがふうって息を吹き込んだみたいに 夜のあいだ積もった雪に種が落ち人知れず伸びたような それはあざやかな黄色い花だった 冬のさなかに 黄色い春の寝息が響いている 天使はもう地上から出払ったから 私たちこんなふうに奇跡を知るんだ 春の寝息の中で 私たちみんなしずかになる
溶けるなんて知らないから、5歳の娘は愛してしまう。 指で触れてしまってから、それが失われていくものだってわかるんだ。 雪が降っていた。 街に雪が降って、朝はいつも以上に光に満ちていた。 「おとーさん! おとーさん!!」 娘は冷えた手をぎゅうっと僕に押しつけて、やたらに足をバタバタさせてる。 「きて! はやくー!」 どれどれ。僕はろくに上着も着ないでベランダに立った。雪の降るあの匂いが大気に満ちている。 娘は「ほら、ほら」って、雪を手のひらで丸めて差し出してくる。まるで、お
久しぶりに、本当に久しぶりに手紙がやってきて、 「あれ、こんな字だっけ」と思う。 大学の頃からの友達だった。 かれこれ20年近い付き合いで、300キロほど離れた街の隅っこで暮らしている。旦那さんと二人の子どものいる、僕が知らない家。 彼女は「雨が降ってるの」と手紙を始めていた。「だからってわけじゃないけど」としばらく続けて、「スーパーで半額だったから。つい、買っちゃうんだよね。ガーベラ」と終わってた。まるで、蛇口を閉めるみたいに唐突に。 「ふうん」と、僕は手紙に書かれた
出かけるからとマスクをしていたら、4歳の娘がこんなことを言った。 「おとうさん、ハックション(くしゃみ)ってどこにいくの?」 「遠いお空の向こうかなぁ」 僕は微笑みながらそう答える。 「おいかけよう!」 と、娘はその場でぴょんぴょん足踏み。 「じゃあ、急いでお家を出なくちゃね」 僕は玄関のドアを開けた。娘のサンダルがパタパタとマンションの階段にリズムを与えていく。 5分後、僕らは青空の下でハックションを期待していた。誰かしてくれないかなぁとキョロキョロしてたんだ。
長靴。 雨カッパからのぞく切り揃えた前髪。それから、すがりつくための親の両足。 緑の草陰にバサバサと手を入れて、4歳の娘は探し物が見つからない。 「きっと、ねんねしてるんだよ」 僕が言うと、「おこしてきて!」と無理難題だ。 「おきてくださーいってお手紙かいて」、娘は唇をとんがらせてる。 家から120メートル離れた公園に僕らは腰を下ろしていた。雨粒は砕かれた氷菓子のように人肌でしんみり溶けていく。娘は「おとうさん」と、草っ原をざらっと撫でて顔を上げた。 「あのね」 娘は黄
子どもが眠った後の台所はやけにしんとして、引っ越してきた日の夜と変わらない静けさがあった。僕は雨の痕が残ったベランダを見つめている。もう日はとっぷり暮れて、なんだか世界中が真夜中みたいな気持ちになっていた。 僕はうちの奥さんと小さな喧嘩をした。どっちが悪いとか、もういい加減にしてよとかそういう決まり文句が通用するのじゃなくて、それはどちらかというと電池が切れた秤みたいな、ただそれなりに重いだけの塊だった。 ピンと張りつめたあなたの背中が「今は話しかけないで」って打ち明ける