平野啓一郎『本心』を読んだ
平野啓一郎さんの『本心』を読みました。以下ネタバレを含みます。
舞台は2040年の日本。仮想空間が日常となっている。格差社会はますます酷い状態。自由死を望んだ母は自由死を叶える前に事故死してしまう。僕は母のVF(バーチャルフィギア)をつくり母の本心を知るために動き出すという筋書きだ。
僕は母の友達であった三好という若い女性に出会う。二人の共通項は、格差社会において持たざる世界から抜け出すことができず、なおかつ深い孤独を抱えていていること。
二人は友達になるが、ある日僕は被災した三好を自宅に呼び寄せて一緒に住むことになった。
三好は過去の経験から性的な行為への嫌悪感が強く、同居がはじまる前にそういうことは抜きの関係でいたいと伝える。
僕は三好に淡い恋心をいただくも、三好の気持ちに寄り添い、その気持ちを隠し続ける。
そんなある日、僕は偶然の出来事により、天才的なアバターデザイナーであり、お金持ちであり、下半身不随の障害を持つイフィと雇用契約を結ぶ。
僕はイフィの大ファンである三好をイフィに紹介する。案の定、三好とイフィは惹かれ合っていくんだけれど、この切なさすごくわかり過ぎて、胸が締め付けられるように痛くて仕方がなかった。
孤独な中で出会った同志のような、友達のような、それでいて異性として惹かれる三好の存在はかけがえのないものだと思う。
最低でも、自分が「僕」の立場だったら、三好のことを失いたくないと思う。
でも、こうなってしまったらどうしようもない。三好の気持ちはイフィのほうにいってしまっているのは感じているだろうし、実際、格差社会で持たざる者である自分がイフィよりも三好のことを幸せにできるといえるだろうか。
僕は取り乱すこともなく、去っていく三好のことをしずかに受け入れる。
それは僕が母の本心を知るために、VFの「母」と対話したり、三好や藤原、担当医と会うというプロセスを通じて、僕が成長したが故に他ならない。
母の本心を知ろうとすることでなぜ成長することができたのか?
もともと僕は母の自由死を受け入れることができなかった。僕自身が自由死をしたいと思っていないし、母も自由死を望む必然性を感じられなかったからだ。そこには、僕の常識=母の常識という、家族と自分を同一視する幼なさがあったと思う。
思春期に父や母がなにかダサいことをすると、猛烈に恥ずかしい気持ちがしたものだけど、これも親から自立することができておらず、親=自分、自分=親という構図から自由になれていないからだろう。
しかし、母の過去を知ることで、母の一人の女性、人間としての姿が浮かび上がってくる。
それは必ずしも想定していた母だけの姿だけではなく、母自身の頭で考えて、ときには世界の常識に反抗して、自分の人生を切り開いていった一人の女性がいた。
必ずしもかっこいいものではなく、子供としては誇れない過去もあったかもしれない。
それでも僕は母の過去を知り、受け入れた。
それにより、母は家族であるとはいえ、他者であることを受け入れて、僕は一人の大人としての人生を歩み始めることができた。
こうした大人への目覚め、すなわち自己中心性から抜け出し、他者と向き合い、それでいて思いやる心を育んだ僕は、去りゆく三好を送り出すことができた。
そのご褒美ではないけれど、三好と過ごした最後の夜に奇跡が起きる。
この奇跡はまだ未読の方にはぜひ自身で読んでほしいのだけど、僕が小説をいろいろ読んできた中で、もっとも美しい光景の一つと言えるかもしれない。最高のカタルシスが得られた素晴らしい読書体験ができた。
序盤から中盤にかけては、きつい格差社会のありようが描かれているが、最後の僕の選択は希望を感じることができた。
現状をよくするために今何ができるんだろう。そんなことを考えた。