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『縁食論ー孤食と共食の間』 藤原 辰史

先週、頭木弘樹さんの『食べることと出すこと』を読んで考えた。

人から出された食べ物を食べることは、相手を受けいれるということ。逆に、相手に出された食べ物を食べないことは、相手を拒否すること。食べることは人をつなぐことも断つこともできる。共同体意識を強いる「共食圧力」と言う言葉の持つ意味を考えた。自分は、食べられない人の理由を想像したか?食べ物を食べ物以上のものとして扱う「共食圧力」を無意識に用いていたんじゃないか?と。

今回読んだ『縁食論』では、この共食という概念と孤食という概念がペアとなっていることが問題であり、孤食でもない、共食でもない、ちょっと立ち寄れて、でも話さなくてもいいような、人の「ヘリ」が、ある場所の同じ時間に停泊しているような食のあり方、場のあり方を「縁食」と呼び、これからの食のあり方について考えている。

縁食とは、孤食ではない。複数の人間がその場所にいるからである。ただし、共食でもない。食べる場所にいる複数の人間が共同体意識を醸し出す効能が、それほど期待されていないからである。
『縁食論ー孤食と共食の間』第1章 縁食とは何か P.27 

子ども食堂などの各地の縁食の場を例に挙げ、単なるコミュニティの活性化ではなく、とりあえず食べ物にありつける場所、人と群れることが嫌いな人でも少なくともいることを阻害されないような排除的な社会をほぐす機能を有していることが縁食の場には必要ともある。

食に関する研究をしていながら、食を含めた排除的な社会に目を向けていなかった自分の意識を反省する。

本の中には、飢餓や戦争の話から、食が縁を絶つ例もいくつも示される。

戦争孤児の餓死に関する描写からは、人々の健康を維持増進するべく食品の機能性を追い求める研究する意味を考えさせられ、戦時中の餓死寸前の部下の前で銀シャリを食べる大尉の話からは、僕も飢える人々を無視しご飯を食べているのではないかと考えさせられた。

本の中に出てきた小林多喜二の言葉を借りれば、「我々の研究が飯を食えない人の料理本になってはならない」ということだと思う。

「縁食」という言葉を知った今、人々の暮らしの具体性に目を向け、耳を向け、「食」のあり方について僕なりに考えていかなければいけないなと思う。

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