短編小説「香りの記憶」
3年間という期間は中学生の私にとって限りなく永久に近いものだった。
大人になると3年なんてあっという間に過ぎる。
そして、歳を重ねるごとに不思議と時間感覚は鈍っていく。
中学時代の記憶はほぼ残っていない。
特にこれといった事を成し遂げた訳でも、希望を何かに抱いていいた事もなかった。
ただ、数少ない記憶の中でも未だに蘇る香りがある。
あの頃私は、大部分の時間をホコリと古書と一人の先生だけで完結するある一室で過ごすことに全てをあてた。
広い机に、多い時は5人くらいが何時間も居座る所だった。特に会話する場所ではないので卒業まで会話はしたことの無い5人。
名もなき彼らの顔だけが唯一の記憶。
距離を詰めようなんて、お互いに無い。
「はじめまして、私何年何組の〇〇です。よろしく」
「あ、よろしく!」
他の場面であれば行き交うであろう会話は、その一室だとどこか不自然に感じるものだった。
私が会話したのは、大人しい管理人のような先生だった。きっと他の人もそうだと思う。
「この5点でお願いします」
「返却遅れているのが3点あるから、3日間借りられませんよ。ごめんなさいね」
こういう会話がそこでは繰り広げられる。
2年目に入る頃には、カフェでいう常連客のように、習慣的に足を運ぶようになっていた。
「今回だけ、お願い先生見逃して。どうしても今年中にこのシリーズを終わらせたいの」
「そうね。仕方ないわ。その代わりこの人のもオススメしておくから目を通しておいて」
程よい距離感のあの先生と過ごす時間は、どの先生や生徒とよりも格別に楽しかった。
日々、事務的に授業受けこなし感覚を頼りにあの部屋に向かう。
周りの友達は忙しそうに部活に打ち込んでいた。
「もう部活入らないの?」
「うーん、もうそこまでやりたいことないかな」
「そっか、それじゃ仕方ないね」
入学当初、私だって部活に所属していた。
小さい頃から、美術館や名画展に触れる機会が多く、中学生の頃には油絵に魅了された。
そんなこともあり、美術部一択で部活に加入した。
「一年生はデッサンから。好きな石膏を選んで、細かい線や影に注意しながら描いてみてください。」
私はリンゴを選んだ。単純に簡単そうだから手に取ったが、思うように円形が描けなかった。影も不自然な色を帯びて全く石膏に忠実なものが描けなかった。
そこから二ヶ月はひたすら、マスオさんのようなダヴィデ、サザエさんのようなヴィーナス像を描き上げることになった。
自信喪失はもちろん、もはや美術すら嫌いになりかけていた。デッサンほど怠惰で趣味の範囲を超える活動はないと思い始めた。
「一番高い画材使ったわね!あなたはデッサンしなさいと言ったじゃない」
ならば、率直に入った目的に取り掛かりたかった。記憶と感覚を頼りに絵を描く。繊細な画線や輪郭や対象物への忠実性は一旦保留にさせたかった。
思いのままに筆をキャンバスに滑らせ、感情に従って彩っていく。そうして美術にはせた無限の可能性を少しづつ取り戻していた。
途中で繊細な部分も気になり、やっぱりデッサンをもう一度練習してみようかと思った矢先だった。
「これ以上あなたのお遊びに付き合ってられません。高い画材は出来る段階の人のためにあるの。分かる? 本気で向き合う気がないなら退部してください」
私はヤケクソ精神ではなくどこか無気力な気分になった。
そした、一生デッサンしている自分を想像した。
デッサンの輪廻に目がくらみそうになった。
気づけば退部届を机に置き、美術室を後にしていた。
放課後は暇を持て余し、校内を彷徨うことになった。3階の廊下の日当たりが良く、頻繁に日向ぼっこをするようになった。
廊下の奥のには惹きこまれる雰囲気のある部屋があった。風通しが良く、窓の外からは野球部やサッカー部の様子がミクロの世界かのように眺められる。
鼻から息を吸うと、過去と現在が入り混じった書物の香りがした。
それは、私の心にすーっと安らぎを運んだ。
手に取った書物全てに没頭し、その度に感情が爆発した。異世界に来た開拓者のような興奮を胸に、時間が風景と平穏な香りとともに過ぎていった。
唯一無二となったあの一室は、記憶に鮮明に残るものとなった。
今もあの安らぎを求めて、褪せない香りを手首に1プッシュ。手首を首元に滑らせ、残りの香りを身に纏わせる。
私の毎日は今もこうして始まっている。
あとがき
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