プロローグ ~二人の読書家の出会い~


 高校生の深山蓮太郎には、いま気になっている女子がいる。朝の通学電車で見かける、他校の女子高生だ。

 肩まで伸びる艶やかな黒髪や、泣きぼくろのある涼やかな目元は、クールで大人びた雰囲気を漂わせる。だが、制服に合わせたピンクのカーディガンや手首のシュシュなど、今どきで結構派手な印象もある。男友達しかいない蓮太郎のような人間とは、クラスが同じだったとしてもおそらく関わることのないような存在だ。

 だが、そんなことはどうでもいい。
 蓮太郎が気になっているのは、彼女がいつも手に持っている『本』のほう。
 そう、彼女は間違いなく、蓮太郎と同じ、熱心な読書家なのだ。

 いつか、彼女が小説を読みながら、うっすらと涙を浮かべているのを見たことがある。人の多い電車の中で、だ。
 読書を趣味とする同級生がなかなかいない昨今、あそこまで小説の世界に没頭し、心揺さぶられていた彼女に、蓮太郎は驚いた。……そして、心の底から、同じ読書仲間として仲良くなりたいと思った。

 だが、他校の女子に話しかけるなんてナンパまがいのことをできるはずもなかった。もし話しかけて冷たい態度を返されたら、一生の心の傷になる自信がある。
 はあ、と小さくため息をつき、蓮太郎は自分の読んでいる小説にのめり込んでいくのだった……。

***

 高校生の堀北明日葉には、いま気になっている人がいる。朝の通学電車で見かける、他校の男子高生だ。

 さらさらとした短髪や制服から覗く肌には清潔感があるし、穏やかな相貌やきっちりした身なりからは優等生っぽい雰囲気がありありと感じられる。校則違反ぎりぎりのファッションで登校し、学校行事にも消極的な明日葉とは、おそらく同じクラスにいても関わりあいにはならないだろうな、と思う。

 だが、そんなことはどうでもいい。明日葉が気になっているのは、彼がいつも手に持っている『本』のほう。
 そう、彼は間違いなく、明日葉と同じ、熱心な読書家なのだ。

 彼は毎日、ひとり口元を押さえて笑いを堪えていたり、悲しそうに震えていたりする。混雑する車内をものともせず、ただ目の前の小説の世界に浸りきっているのだ。きっと彼は心底、小説のことが好きにちがいない。
 そんな彼に、同じく本好きの明日葉はとても親近感を覚えた。そして、自分の感想を話せるような読書仲間が欲しいとすれば……彼のような人がいいな、と思った。

 しかし、明日葉はその見た目とは裏腹に、彼にいきなり話しかけるような、そんなナンパめいたことには抵抗がある性分だった。それに、もし自分が「きみ、本好きなの?」なんて異性に話しかけられたら、絶対に警戒する。彼だってそうだろう。彼にそんな顔をされたらすごく、それはもうすごく凹むだろう。

 はあ、と小さくため息をついて、明日葉は手元の本に目を落とそうとする。その時、自分の降りる駅のアナウンスが車内に流れていることに気がついた。明日葉は慌てて本を閉じ、急いで電車を駆け降りる……。

 そのとき、その彼女の文庫本から、するりと一枚の栞が落ちた。彼女は、それに気づけなかった……。

***

「待って!」

「……え?」

 蓮太郎は無意識のうちにそう叫んで、自分も電車を飛び出していた。電車がその扉を閉め、蓮太郎を置き去りにホームを発つ。
 例の彼女は、蓮太郎へと振り返ると、その大きい目をまるまるとさせた。そして、走り出す電車と蓮太郎を交互に見る。そんな彼女に、蓮太郎は早口で言った。

「こ、これ……! 落としたから!」

「え? あ……っ!」

 蓮太郎が掲げるようにして見せたのは、彼女が目の前で落とした桜の柄の栞だった。呆然とする彼女に、蓮太郎は駆け寄ってそれを手渡す。

「あ、ありがと……」

「あ、ああ。えーと、どういたしまして」

「あー……ごめん。電車、行っちゃったよね。あたしのせいだ」

「え? あ、ああ、いいんだ。俺は一本後でも間に合うから。それより、誰かに踏まれたりしなくてよかった」

 蓮太郎はぎこちなく笑みを作った。彼女は少しだけ目を細め、大切そうにその栞をまた本に挟む。

「…………。」

「…………えー、と……」

 奇妙な沈黙が、わずかに二人の間に流れる。何故か彼女も、後ろ髪を引かれるように、その場から踵を返そうとはしない。……まるで、蓮太郎が次に何を言うかを、待っているかのように。

 勇気を出せ。聞くなら、本当にここしかないぞ。心の中の自分が発破をかけてくる。拳を握りしめる。小さく深呼吸をする。そして、よし、と心の中で呟いた。

「あっ、あのさ!!」

「っ、う、うん」

「よかったら、その……教えてくれないかな?」

 手を後ろでそわそわと弄ぶ彼女に、蓮太郎は勇気を振り絞り、訊ねた。

「いま、君が読んでる本のタイトル!!」

「……………………………えっ?」

 彼女は、いつのまにか取り出したスマホを片手に硬直していた。予想外の彼女の反応に目をぱちぱちと瞬く蓮太郎。
 蓮太郎のせいで再び訪れた、謎の沈黙。それを打ち破ったのは……。

「はあ〜〜〜〜…………………」

「ええっ!? なんでため息!?」

 彼女が発した、それはもう大きな、呆れのため息であった。

「いや……、あー、はいはい、よくわかったわ。君が、あたしの考えてた何倍も、生粋の読書家なんだってことがね……」

「えーっと……な、なんか、ごめん……?」

「ほんとごめんだよ。おかげで恥ずい勘違いしちゃったじゃん」

「勘違い?」

 蓮太郎が訊き返すと、彼女はほんのりと紅くなった頬を隠すようにして、スマホを顔の前に掲げた。

「…………てっきり、名前とか、聞かれるんだと思ったの。そっちはどうでもいいわけ?」

 責めるような、でも、恥ずかしそうな彼女の口調に、蓮太郎は思わずどきりとした。蓮太郎は、その顔を隠しながら、冗談めかして深くお辞儀をした。

「……いえ、どうでもよくないです。教えてください」

「……ぷっ、なにその言い方、ウケるんだけど」

「う、ウケないでくれないかな!? 慣れてないっていうか初めてなんだよ、こういうの」

「女の子と話すことが?」

「違う、そこまでじゃないから! 女の子に俺から話しかけることが、だから!」

「……いや、そこまで違くもなくない?」

 そんなくだらないやりとりの末、二人は同時に、くすりと吹き出した。

「あたしは、あすは。堀北明日葉だよ」

「俺は、深山蓮太郎。よろしく、堀北さん」

「たぶんタメでしょ? さん付けなんてやめてよ。あたし高2。深山くんは?」

「わ、わかった。俺も高2だ。よろしく、堀北」

 そう言いながら、蓮太郎は彼女の名前を頭の中で繰り返した。堀北明日葉。ずっと知りたかった、敬愛すべき読書家の名前。

「まあ、他の人が読んでる本を知りたいって気持ちはあたしも分かるけどね」

「だ、だろ!? 全読書家共通の性質だろ!?」

「全読書家かは知らないけど……。じゃあ、深山くんは何読んでたの?」

「ああ、俺はな……」

 そう話が弾みかけたところで、ホームにアナウンスが響き渡った。向こうのほうから、次の電車がやってくるのを見て、蓮太郎は少し落胆した。

「あー、電車きたか……」

「じゃ、続きはまた明日だね」

 また明日。その何気ない明日葉の言葉に、蓮太郎は嬉しくなった。まだ朝なのに、明日が楽しみになってくる。どんな本の話をしようか。彼女は、あの本は読んでいるだろうか。これまで聞けなかったぶん、たくさん……。

「……ああ。じゃあ、また明日」

 君の感想を、聞かせて。

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