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「学者」だからこそ、「魂」を語らなくてはならないと思う

白状すると、「魂」という言葉を使うのが、ずっと怖かった、宗教学者のわたし。
(需要のある告白かは分かりませんが、笑)

「魂」という言葉、
個人的にはなんの抵抗もなくすんなり使いまくれるのですが、

「学者として」、証明されていない概念をうかうか使うことが、ずっと、すごく怖かったのです。

でも、何十年もかけて

「人がどうしたら本質を生きられるか」

を研究してきて思うのは、

魂について、
そして証明のされていない「生命」という無制約的な源について、
語らずにすませることはできない、ということ。

魂を語らずして、
人間を語ることはできないということ。

「ほんとうのこと」を求めるのが学問であるからこそ、

証明できない、不可思議な神秘に触れなければ、
ほんとうのことを話せないのだと、思うようになりました。

ほんものの学問は、「生かされていること」への眼差しに根差している。

たとえば、
敬愛する生物学者、福岡伸一さんの語る宇宙は、とても美しい。
彼はサイエンティストですが、彼が書くものは文学でもあると感じます。

追いかけようとすればするほど、
指の間からこぼれてゆく、
生命というもののつかめなさに、

彼は無力感をおぼえるのではなく、
存在の奥底から、打たれているように見えるから。

その感性が、
センスオブワンダーに打たれた少年のその震えが、

彼の学問に魂を与えている。

届かないものに、
永遠に届こうとし続けること。
語りえないものを、
永遠に語ろうとし続けること。

そこにこそわたしは、
学問の誠実さを見るし、
人類というおかしな存在の愛おしさを、
感じてやまないのです。

小林秀雄は、柳田國男とその弟子たちを比較して、こんなふうに言っています。

柳田さんは、宗教的な感性を根本にもって、その感性をベースに民俗学をしているから、民俗学は成り立っているのだと。

弟子たちはその感性なしに、うわべの方法論だけを引き継いでいるけれど、

それでは本当の民俗学にはならないのだと。

本当の学問は、どこか文学的なもののはずなのだろうと思います。

分かりきることができないものへの、抒情を含むもの。
誰にも誤解のない無味乾燥な言葉ではなくて、
手触りのある、ぬくもりやつめたさのあるもの。

魂という、たしかなようで不可思議な根っこが、どうにも震えてしまうもの。

切なさや、きゅうっとする感じや、どこまでも広がる感じや、これまでのぜんぶを一息に解いてくれる感じや、目眩がするような不思議をそのまま見ているような感じがするもの。

少なくとも、その学問が人間を、生命を、対象とする限り、
学問は、人間を震わせるものについて、語らなくてはならないと思う。

でもやはり、だからこそ、最大限の理性をもって。

この間お話した方が、

「最大限の理性をもって狂気に足を突っ込む」

というフレーズを教えてくれて、
「生きる」ことって、そういうことかもな、とも感じました。

わたしたちが、自分の意志とは関係なく、
その一部として産み落とされたこの宇宙は、

生命という頭で考えても訳の分からないエネルギーによって、
奇跡のように運営されています。

その、語りえぬ壮大な何かのひとしずくを、人は、「魂」として持って生まれてくるのだと思います。

生まれたときから、
生命の一部を、
記憶のように宿して。

だから、
人は、
宇宙のように、
宇宙と同期して、
生きることへと、
還ろうとする。

懐かしいふるさとへ、
そこにいれば、
ただ生きているだけで充分で、
ただ生きているだけで必要とされて、
幸せで、
輝いて、
自由で、
満たされてある、
そんな風景へと、
帰ろうとする。

その魂の願い、
その本質への憧憬と、
そこへの帰巣本能を見ずに、
人間を語ることは、

もう、できないと思うのです。

だから、話そうと思います。
言葉では届かない何かを、
言葉で、
震えで、
絵で、
声で、
息で、
共有していけたら、いいなと思います。

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