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「おもろいやつ」には“意見”がある(NON STYLE 石田明)

 NON STYLE 石田明さんが書いた本、『答え合わせ』(マガジンハウス新書)を読みました。


■ 何故『答え合わせ』なのか?

 近年「ナインティナインのオールナイトニッポン」で「M-1グランプリ」放送後に大会の総括や漫才論を語る機会があった石田さん。そのときの企画が「M-1答え合わせ」というタイトルでした。

 中学1年生のとき、お笑い好きのお姉さんに連れて行かれた心斎橋筋2丁目劇場で、石田さんは初めて「漫才」に出会います。
 「世の中に、こんなおもろいもんがあるんか!」と感動した石田少年は、新聞配達のアルバイトでお金を貯めて毎日劇場に通い詰めるようになりました。

 もともとオタク気質であったという石田少年はネタを見ながら熱心にメモを取り、家に帰るとそれを清書して「ちょっとしたネタ台本」を作成しては「この人たちはどうしておもろいんやろ?」と自分なりに理由を考え、翌日にはまた劇場に行ってその理由が合っているか「答え合わせ」をする日々を送りました。
 自身のこれまでを振り返ったとき、そんなところから『答え合わせ』というタイトルを採ったようです。

 本の表紙の推薦コメントに、昨年の「M-1グランプリ2023」で優勝した令和ロマン・髙比良くるまさんは「この1冊でNSC1年分の価値ありますけど逆に大丈夫ですか?」と記しました。
 M-1の若き王者がそのように書くのも頷けるほどの至極の漫才論がたっぷり詰め込まれた、「漫才師やお笑い芸人のみならず、漫才が好きな人たち、お笑いに興味がある人たち」には必読の「答え合わせの書」となっています。

■「つまらない人間」というコンプレックス

 本書は、こんな一文で始まります。

 僕はずっと、自分のことを「つまらない人間」やと思ってきました。

P3

 「爆笑オンエアバトル」でチャンピオンになったときも、2008年にM-1を優勝したときも、そして芸歴が20年を超えた今でも「自分はつまらない」というコンプレックスを抱えている石田さん。

 でも、だからこそ、「面白い漫才とはどういうものか」「どうすればもっとウケるのか」を追求してこれたんやと思っています。

P3

■「おもろいやつ」には“意見”がある

 本書を読んで私が一番ハッとしたのは「「おもろいやつ」には“意見”がある」の章です。

 2000年5月、石田さんは相方・井上裕介さんとのコンビ「NON STYLE」を結成しました。
 神戸・三宮駅付近での漫才の路上ライブでアマチュアながら人気を博し、baseよしもとの公開オーディションを経て、晴れて吉本興業の所属芸人となります。
 「僕は漫才が大好きで、漫才さえできればよかったんです」と語る石田さん。

 しかし、漫才でウケて人気が出れば出るほど漫才以外の仕事が増えていき、寄席で苦手なフリートークやゲーム企画をやるたびに自分の「面白くなさ」を痛感するばかり。
 「漫才では笑いをとれるけど、生身では笑いをとれない俺は、しょせんは作り物なんや」と暗く否定的な気持に覆われ、次第に病んでいきます。
 心療内科でうつ病と診断されるまでに追い詰められた石田さんは、それでももがきながら「どうすれば自分は面白くなれるのか」を必死に考え続けます。
 そして、ある一つの答えに行き着きました。

 僕には「意見」がないんや――。
 「意見」があるやつは、なんか尖ってる。なんか面白い。そう気づいて以来、目にするものすべてに「意見」を持とうと努めてきました。

P177

 そのように気付いてから石田さんは、日常のどんなささいな一場面でも、「俺はこれを、どう考えるんや」と自問自答のトレーニングをするようになります。

日本の水道水は飲めるのに、なんでペットボトルの水を買ってんねん。俺は絶対に買わへんぞ。誰かがくれたら飲むけどな
たまに見かける、親子丼に乗ってる卵の黄身、ほんまに必要か? 偉そうに真ん中に鎮座してるけど、その下の卵と鶏肉だけでもう完成してるやん。いらんやろ
短距離走のゴールの瞬間、なんで中継番組ではスローモーションにするんや? ゼロコンマ何秒を縮めるために、血を吐く思いでがんばってきた人たちやぞ。全力疾走でゴールを駆け抜けるところを、そのまま流したれや

 もともと劇場で見たネタをノートに書き起こしていたオタク気質の僕ですが、今のように細かく分析し、言語化するようになった根っこには、何にでも「意見」を持ってやると意識した、あのときの自分がいる気がします。

P178

 「実際、そうやって何事にも意見を持つようにしていくなかで、少しずつ漫才師としての力もついてきて、気持ちも上向いてきたように思います」と石田さんは語ります。

■ 書くことが「世界観」を構築する

 「「おもろいやつ」には“意見”がある」のエピソードに何故私がハッとしたのかと言うと、以前に読んだ本のことを思い出したからです。
 それは、人気ブロガーのフミコフミオさんが書いた『神・文章術』(KADOKAWA)という本です。
 副題は「圧倒的な世界観で多くの人を魅了する」というもので、ここでは「世界観」というワードがカギとなります。

 ある日、フミオさんは担当編集者から
「フミコ先生の文章は世界観がしっかりしているので、一発でわかります。今の世の中には書きたくても書けない人、世界観が持てなくて悩んでいる人がたくさんいますよ」
と言われ、驚いたそうです。

 何故ならフミオさんは、今まで「自分には確固たる世界観がある」という自覚がなく、意表を突かれたからです。
 「文章を書けるようになるためには、どうすればいいのか?」という相談に乗ることも多かったフミオさん。
 編集者からの言葉をきっかけにこのことについて考えるようになり、この世の「書きたくても書けない人」は、その人独自の「世界観」を構築できていないのではないか? ということに思い当たります。

 たとえば優れた創作物に触れたときに人は「すごい世界観だ」という感想を述べたりしますが、そもそも「世界観」とは何でしょう?
 フミオさんは、「世界観」とは「世界の見方、自分を含めた世界のとらえ方」のことで「その人のありよう、個性のベースになるもの」と説明します。

 世界観を構築するために一番有効な手段として、フミオさんは「多少 粗削あらけずりでもいいからとにかく何でも書いてみること」を勧めます(本の中ではそれを『書き捨て』と表現しています)。
 ある対象について書くとすると、感想や考えといったぼんやりしたものを、「自分フィルター」で 濾過ろかして、自分の言葉という枠に入れる変換作業が発生します。

 たとえばコロナ禍が一番激しかった2020年、日本政府から全世帯に布マスクが無料で配布されましたが、それに対して「無駄だ」「素晴らしい政策だ!」「布マスクなのがなぁ……」と、どのようにとらえるかは人それぞれです。
 そのように一旦言葉に落とし込み、他にも様々な対象について書くことによって、対象と自分との間にある距離や、自分の考え方や立ち位置というものがどんどん明確になっていきます。
 その一つひとつの蓄積が、いつしかその人自身の「世界観」を構築するのです。

 「世界観があるから書ける」のではなく、「書くこと」で世界観がつくられていくのだ。「世界観がないから書けない」というのは誤解だ。逆である。「書かないから世界観が構築できない」のだ。

P44

 この「対象についてとりあえずどんどん書いていく」という態度は、石田さんのとにかく「何にでも「意見」を持ってやる」という決意とちょうど重なります。
 文芸と話芸の違いはありますが、何故「その人の話を読みたい/聞きたい」という欲求が生まれるのかというと、結局は「おもろいやつ」が対象や物事に対してどのように感じ思ったのか、その「世界観」に触れたいからです。
 そしてその「世界観」は、その人独自の数多くの“意見”の集積によって構築されます。

 「おもろいやつ」には“意見”がある。

 そしてその一つひとつの“意見”が、「おもろいやつ」の面白さ(世界観)を更に強化するのです。

■ M-1でブラマヨが優勝できた理由

 ところで、2010年以前のM-1グランプリで「最高傑作」として名高いのが2005年に優勝したブラックマヨネーズです。
 石田さんは彼らを「持論系」漫才の元祖とし、「この人たちの考えていること自体がおもろい」漫才と定義します。

 ブラックマヨネーズは決勝の場で「ボウリング」と「格闘技」のネタを披露し、吉田さんの芸術的までに練り上げられた“意見”(“偏見”とも言う)に対して小杉さんが「考えすぎや!」と体ごとツッコミでぶつかっていく、非常にボルテージの高い内容でした。
 彼らは、「意見を持っている人は面白い」という石田さんの信念をそのまま体現しているコンビです。

 そして「ナマの人間の掛け合い」を見せること、そして見ている人に「このはちゃめちゃな立ち話は、いったいどこに行くんだろう?」と思わせる先の見えなさこそが、漫才の最大の醍醐味であると石田さんは語ります。

 一度もボールを落とすことなくラリーを続け、最終的にはとんでもない熱量の到達点にバコーンと上げていく。それが漫才の理想形やと僕はつねづね思ってるんです。

P35

 そして何故そこまでの熱を帯びることができたのかというと、ブラックマヨネーズの二人は互いに確固たる“意見”を持っていたからです。その強固な「世界観」の下で繰り広げられるバチバチのぶつかり合い・やり合いがとんでもなく面白かったため、二人は優勝への道を一気に駆け抜けることになりました。

■ あとは実践あるのみ

 たとえばネットやSNSでブイブイ言わせている著名人を思い浮かべてみると、彼らは例外なく何らかの“意見”を持っている、ひとかどの人物であることに気付く筈です。
 それに正当性があるかどうかは別として、意見が極論すぎて思わず笑ってしまうことも多々あります。
 たとえ相容れない主張でも、笑ってしまったらこちらの負けです。
 その時点で「(ちょっとどうかしてるとは思うけど)面白い」という価値が発生してしまっているからです。

 まぁ実際そこまで極端にいかなくとも、人間は“意見”を持つようになれば、もれなく「おもろいやつ」に一歩近付けられるのです。
 転じてnoteに目を向けてみると、とりあえず何かを書くという行為はそのまま“意見”を述べることとイコールであり、書けば書くほどその人は面白くなるという算段になります。

何それ、そんなのってめっちゃ最高じゃん……

 と、このように非常に月並みな意見で恐縮ですが、石田さんの「「おもろいやつ」には“意見”がある」に深く感銘を受け、少しでもその境地に近付くべく、その第一歩としてこのたび私の“意見”を述べた次第でございます。



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