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航西日記(14)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年正月二十七日(1867年3月3日)


晴。サイゴン。

正午ごろ、出港。

瀾滄江らんそうこうくだって、午後四時ごろ、川口の燈明台山とうめいだいさんふもとにいたり、ここで、水先案内をろす。

しだいに、大洋に出ると、船脚も速くなった。


慶応三年正月二十九日(1867年3月5日)


晴。暑い。

夕方五時、シンガポールに着いた。


慶応三年二月朔日ついたち(1867年3月6日)


晴。シンガポール。

朝六時に上陸した。

マラッカとスマトラを左右にして、東洋第一の海の関所である。

亜細亜アジア大陸から、海中に長蛇のように突出し、北緯一度十七分にあって、暑さは、ひどく厳しいが、樹木繁茂はんもの地が多く、涼しい陰を作っているし、時折、にわか雨もあって、暑気を洗い流してしまう。

土地は、赤茶あかちゃけた砂地で、港の近くには、耕地もなく、雑木や野草が、道端に生い茂り、美しい色の鳥が、その間を、羽をひるがえして舞っている。

土着民の風俗は、安南あんなん同様で、はだかで、裸足はだしの者が多い。

市街も、安南同様である。

英国領に属している。

埠頭ふとうの設備から、石炭置き場、電線、馬車の完備にいたるまで、全てに、力をそそぎ、その成果も上がっていて、英国の東洋に対する野心にも、しっかりした基礎が有る事がわかる。

湾の入り口は、ちょうど造った庭のように、小島が、いくつかつらなっており、緑樹が、よく茂っており、庭師が苦心して、築いたモノのようである。

汽船は、この所を通過して、湾内に入り、湾内の広いところで、船を回転して、舳先へさきを沖に向けて停泊する。

波止場はとばに船をつけ、橋でつないで、上陸する。

海岸は、石炭倉庫ばかりで、住家は無い。

水辺に小亭が、いくつか有る。

欧州人が、真夏に散歩して、休息するために設けたのであろう。

馬車をやとって、市街に行く。

約一里余り、雑木の茂った沼に沿って、道が有る。

市街は、欧州人、土民が雑居して、商業を営んでいるが、はなはだ高価である。

「ヨーロッパ」という名のホテルに一泊した。

この地、第一のホテルだという。

市外、ほど近くの地に、植物園があって、小山をかたどって築き、いろいろな草木を植え並べて、おもむきのある遠景近景をつくり、園中には泉池もあって、炎暑のもとで、涼をさそい、遊客の気分をなぐさめてくれる。

その地の産物のとう茣蓙ござ、竹杖、アンペラ、そのほか小鳥やポケット・モンキーなど持ってきて、旅客にあきなう。

また、欧州各種の貨幣を持ってきて、郵船停泊の間、波止場に風呂敷をしいて、その上に並べて、両替をしている。

中には、にせ物もある。

また、古貨幣の、なかなか良い物もあった。

裸の子供が、小舟に乗って、船の近くにむらがり、銭を投げてやると、海中に飛び込んで、拾ってくる。

銅貨を投げると、海中では見えにくいからと言い、銀貨でなければ飛び込まない。

本邦の江の島に行った時のようで、世態せたい、人情というモノは、変わりがないものだ。

水中で銀貨を争うさまは、亀の子のようで、また、海上で競泳のまねをして、先を争うさまは、矢のように素早い。

ここから、ジャワのバタビアに行く旅客は、上陸して、定期の郵船を待ち合わせるのである。

午後五時、出港。

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