航西日記(6)
著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫
慶応三年正月十五日(1867年2月19日)つづき
曇り。上海。
この地では、高官が、市街の往来を兵卒や従僕あまた引率して、巡邏する。
その行装の整わず、衣服の粗末な事は、まるで児戯にひとしい。
この地に、フランスの教師で、学校を開いて、教育をおこなっている者がある。
また、欧州人が、東洋学を研究するために設けた書院もあるが、欧州人で、東洋学を修行する者は、みな、宗教関係者で、その国の宗教のよって来たるところを研究し、考証の資とし、かつ布教しようというのであって、修学の入費も、教団の積立金から出ているとの事だ。
欧州人が、土着民を使役するさまは、牛馬を駆使するに異ならず、督励するのに、棍棒を使っている。
我々が、市中を遊歩すると、土人が集まってきて、往来をふさぐ。
口々に雑言を吐いて、やかましいのを、英仏の取締の兵が来て、追い払うと、潮が引くように去り、しばらく休むと、また集まる。
その、みっともない有様は、いやなものだ。
東洋の名高い大国で、領土の広い事、人民の多い事、土地の肥沃な事、産物の豊かな事では、欧亜諸州も及ばないのであるが、ただ大木のようなもので、世界の開化に遅れをとり、ひとり自国だけが、すぐれた国であるとして、尊大自恣の風習があり、道光帝以来の敗戦(アヘン戦争)をまねき、さらに開国の方針も確立せずに、ただ武力で対抗できない事と、諸国の気持ちを量りかねるのを恐れるだけで、なお旧式な政治を固執して、日に貧弱になっていくように思われる。
惜しい事ではないか。
この夜、夕食には、鱸の膾などもあり、生で食べた広東菜の味は、特に良かった。
初めて、波枕をまぬがれて、陸地の眠りをおぼえた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?