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航西日記(8)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年正月二十日(1867年2月24日)


晴。香港。

今日も、風おだやかで、朝十時ごろ、香港ほんこんに着いた。

この地は、広東府かんとんふの地先の海中にある、一狐島で、港内を多くの小島がとりまき、風波をふせぎ、海底は深く、多くの船舶を停泊させる事ができる。

平坦地が少なく、山腹を切り開いて、道路をつけ、海岸には、清国人の住家が多く、山手は、ことごとく欧州人の住居である。

道光どうこうの戦(1840~1842、アヘン戦争)後、講和のため、償金のほかに、割譲されて、英領となった土地である。

昔は、荒れ果てた一漁島であったそうだが、英国の領土となってからは、山を開き、海をうずめ、石段をきずき、石をたたんで溝を通じ、しだいに人家が密になり、貿易のさかんな豊かな土地になったとの事だ。

地図を見て考えると、潮州ちょうしゅうと呼ばれるあたりになるかと思われる。

とうの詩人、かん退之たいし)が書いた、わにの文に、ゆかりの地であるが、昔に代わって、しっかりした巨船に乗り、万里の波濤はとうを枕として、来れるようになった。

その時代の移り変わりとともに、世運せいうんが日々に開けゆくのも、またたく間のことである事がわかる。

今、英国人が、東洋の商業を支配し、利益をあげているのは、インドを領有しているからであるとはいえ、それを利用する道を得て、流通金融を発達させ、運輸を自由にし、利益を、もっぱらにし、交通を、ほしいままに支配し、流通の開閉、物価の高低など、変動を自由にあやつり、東洋の経済を支配しているのは、理由がある事である。

また、住民の保護のために、陸海の兵備をげんにし、その国の永名えいめいと利益をはかる規模が、宏大である事は、見れば知られる事である。

鎮台ちんだいは、全権の大佐が持つところで、威望がある。

近来、この地に、大審院だいしんいんを置いて、高位の裁判官を置き、東洋に分在する国民の訴訟を審理し、裁判しているといわれる。

山手の人家は欧風で、暑熱の地なので、池水植樹の配置や、すだれや、まくや、ベンチの設備は、もっぱら夏向きに、涼しいようにできている。

英華書院えいかしょいん、その他の学校がある。

造幣局、新聞社、学校、病院などが完備し、ほぼ欧州なみで、規模をいくらか小さくしたようなモノだという。

英華文学上の書籍が、多くここで、刊行されている。

英国人で華学を修行する者は、みな、勉強刻苦し、決して通り一遍いっぺんのものではない。

その教法のよって来るものを研究するために、その学問の源を考察し、その政治風俗から、歴代の沿革、政典、法制はもちろん、日用文章まで、くわしく研究し、書を翻訳し、研究成果を著述するなど、大事業をやってのけた人は、少なくない。

文明の根源が定まっており、人心の精神も盛んで、学術に従事する事に熱心なことから、国が強盛で、人知が英明周密えいめいしゅうみつ由縁ゆえんを知る事ができる。

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