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航西日記(13)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年正月二十六日(1867年3月2日)


晴れ。サイゴン。

朝七時、この地の官船が迎えに来て、我が公使(徳川とくがわ昭武あきたけ)の御供をして上陸する。

停泊の軍艦が祝砲しゅくほうをうって、騎兵半小隊が、馬車の前後を守り、鎮台ちんだいの官邸にいたる。

席上で、音楽などが終わってから、本国の博覧会をまねて、奇物珍品を集めた会場を一見し、市街を遊覧し、午前十時ごろ、帰船した。

夜、鎮台の招待で、官員の集会でおこなわれた音楽会を聞く。

これより先、仏国は、交通を開こうとして、宣教師を派遣し、この地の状態を調べさせたところ、原住民が怒って、宣教師を殺害したことから戦争となり、仏国軍は、おおいに土民軍を攻撃し、奥地まで攻め入った。

そこで和を講じ、地をいて謝罪した。

以後、仏国領になったという。

鎮府があって、高官が派遣されて、総督の任にあたり、歩騎砲の三兵の将官および兵力一万を駐留させ、不慮の事件にそなえて、さかんに開拓建設を図っている。

しかし、兵火ののち、まだ十年も経っていないので、土地は荒れ、人口も少なく、まだ富み栄えるには、いたらない。

そのうえに、土民も、しばしば反乱し、ややもすると、すぐに集まって、兵をあげ、攻撃をしかけてくる。

だから、仏国軍は、常に、これにそなえて、軍備を縮小するなどの事はない。

各国の船舶も、わずかに四、五隻が停泊するだけで、商店も少ない。

もっぱら土地をひらいて、すでに製鉄所、学校、病院、造船所などをもうけ、東洋における根拠地にしようとして、おおいに将来の遠大な計画を立てている。

しかし、一年の税収は、わずか三百万フランにすぎず、年々の入費が多くて、収支つぐなわないので、本国の議会の論も、まちまちであるといわれる。

この港は、カンボジアぐちをさかのぼること、およそ半日、六十里であるが、水深は、深いところで、四十五尺ほどあるので、航行に、さしつかえないという。

上陸場は、平岸であって、船は、中流にいかりをおろし、小艇で上陸する。

土俗は、貧しくおくれており、婦女子が、男に代わって、あかだらけの顔をして、髪をぼうぼうにしたままで、舟をあやつり、荷物を運んで、生活をしている。

熱帯なので、砂塵さじんが舞い、歩くのも、物憂ものうく。

これという名勝もない。

鎮府は、江岸から、八、九町、へだたった林の中にあり、劇場や花柳街もあって、支那しなと同じ様子である。

おいおい、欧州人の移住する者もあって、人口も増したという。

案内の者を雇って、椰子の林や、バナナの木立ちの間を行き、広々とした原に出た。

象使いが、二頭の象にまたがって来て、後ろ足で立たせたり、曲乗りなどして、自由自在に操って見せる。

やがて、木立ちのあるところに行って、ひとまとめの木を鼻に巻いて、へし折らせ、我々が乗ってみたいと言えば、むちで、ひざまずかせ、後ろ足から、背にのぼって、またがるのも自在である。

このあたりの両岸は、全ていばらのような樹木が茂って、ところどころ虫が鳴き、田では、農夫が、稲の収穫をやっているなど、時候が、本邦と違っている事を感じさせられる。

田は、稲の年二期作で、安南米あんなんまいといわれるのが、これである。

東洋諸国に輸出して、利益をあげている。

金銀貨幣も流入して、持っている者も多い。

その地の産物を郵船に持ってきて、売っている。

びんろう樹の葉の団扇うちわや、竹の笠などである。

馬車を雇って、商綸しょうりんという、古くからのいちに行く。

この港から、およそ二里ほどもあろう。

昔は、繁華な町だったらしく、巨大な建築物が、今は、荒れ果てて残っている。

市中に、大きなやしろがあって、聖母殿せいぼでんと書いたがくが、かかっている。

多分、海神をまつってあるのであろう。

石碑や絵額などを多く掛けならべ、両三人の清国人しんこくじんがいて、縁起えんぎのようなモノを売っている。

筆談で、その由来などを尋ねてみたが、通じなかったのか、返答がなかった。

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