なぜこんなに熱心に神社に詣っているのに、幸せになれないのか
【仏願(1)】
『仏願(ぶつがん)』とは「仏の願い」のことです。
仏の願いを私たちの上に満たすことを目的に
釈迦が説かれた教えが仏教です。
仏教は、私たち衆生の願いを満たすための教えではありません。
それは衆生の願いをかなえても、衆生は幸せになれないからです。
みな願いがかなったら幸福だと信じて、追いかけていますので、
「願いをかなえても、幸せになれない」と説く仏教は
簡単に受け入れられないでしょう。
卑近なわかりやすい例かなと思い、先回と先々回、
『ドラえもん』を切り口に話したのも、
「衆生の願いをかなえても、衆生は幸せになれない」
という仏教のメッセージを知っていただきたいためでした。
ところが多くの人は、それはのび太が愚かだったからで、
オレがドラえもんのあの道具を使えば幸せになれると、
思ってしまうのでしょう。
「人間の願いは、たとえかなったとしても、幸福になれない」
と説くのは真実の仏教の大きな特徴です。
世間に多くの宗教がありますが、手を合わせ、拝む目的は
「衆生の願いを満たす」ことにあります。
もう40日も過ぎればまた初詣で、日本全国の神社が賑わいます。
「どうか今年は~~でありますように」と賽銭投げて
祀られている神にお願いするのですが、
その「~~」の願いの内容は
「商売繁盛」「息災延命」「合格祈願」「縁結び」「安産祈願」
「家内安全」「交通安全」「必勝祈願」等々、これらすべて人間の願いです。
たとえ元日に詣ってお願いしても、商売が上手くいかなかったり、
病気になったり、不合格になったり、結婚できなかったりしますので、
なかなか「満願成就」も大変です。
さらにいえば、たとえ私たちの願い望んでいることが成就したとしても、
それで幸福になれるものではないのです。
なぜなのでしょうか。
それは私たちの住む世は「火宅無常の世界」であり、
私たちは「煩悩具足の凡夫」だからです。
どういうことなのか、長くなりますので、次回、お話しいたします。