第16話 大和平定と妄想話し
神武東征の旅第16話 大和平定
長髄彦を倒した皇軍は、その後、帰順しない新城戸畔、居勢祝、猪祝の邑を攻めます。地図で確認しましょう。三か所の伝承地と大和の主な弥生遺跡をマークしています。地図で見ると磐余を中心として周辺の邑(遺跡)は既に帰順していて、今回登場するのは一番離れた場所の部族という感じです。
前回の記事で書きましたが、こうして見ると長髄彦との決戦地が生駒ではやはり違和感ありますね。決戦地は磐余周辺で、饒速日命が帰順したことによって多くのの邑を掌握したと考えたほうが自然です。
添県波哆の丘岬の新城戸畔という女賊。
ここという伝承地がありません。また、添県と言われた地域では弥生遺跡があまり見つかっていません。そうした中で、ショッピングモールAPITA大和郡山店(2004年開業)の建設工事中に弥生後期〜古墳時代の住居跡が見つかった田中垣内遺跡などは候補と見ても良いかも知れません。
私の考える神武東征の時代は弥生時代中期から後期にさしかかる頃(1世紀)なので、残念ながら時代は少し後のものですが、奈良盆地北部で弥生時代の環濠集落跡は珍しく、2世紀にこの辺りに人々が暮らしていたことが証明されました。周辺でまた新たな発見に期待したいです。
ショッピングモールから東へ1キロ程行くと、大和郡山市新木町に新城神社があります。新城という名が合致するのでこちらも候補地と言えそうです。ただし、新城神社は新城戸畔を祀る為に創建された神社ではありませんので誤解なきよう。
和珥坂下の居勢祝
こちらは伝承地に碑がありました。和爾坐赤坂比古神社から西へ少し坂を下った所にあります。後に、第5代孝昭天皇の皇子で、第6代孝安天皇の同母兄 天足彦国押人命を祖とする和珥氏が本拠とした土地です。
「祝」とは、「神に仕える人」という意味。紀元前2世紀から2世紀の約400年間、大和では銅鐸祭祀が行われていました。銅鐸は奈良最大の弥生遺跡「唐古・鍵遺跡」や、摂津(大阪府茨木市)の「東奈良遺跡」などで生産されました。「政治」の「政」は「神まつり」に由来します。その神まつりの儀式に銅鐸が使われ、祭祀を行ったのが祝と考えられます。
以下私の妄想話しです
『記紀』を読み進めるにあたって、書かれていることがいつの時代のことかわからないと全体像がつかめないと思うので、私が想定する時代の話しをします。
先にも書きましたが、私は神武東征が史実だとした場合、それは今からちょうど2000年前頃の事だと考えています。時代区分では弥生中期から後期に入る頃。水耕稲作は紀元前5世紀にはすでに大和に伝わっていて、紀元前2世紀には銅鐸の生産がはじまり、奈良だけでなく周辺各地に広がっていきます。
大和においては旧石器・縄文時代から人の営みが確認されていますが、やはり稲作が伝わったのが第一の画期。そして銅鐸を生産して祭祀に用いるようになったのを大和での第二の画期と考えることにします。一般的に鉄製道具を画期としますが、それはまた別の機会に書くとして、今回は祭祀という観点からみます。
画像の分布を見てわかる通り、ほぼ大和中全ての邑の遺跡から銅鐸が出土します。神まつりは「政」です。国と呼べるものではありませんが、弥生時代、銅鐸祭祀を共有する連合体がすでに形成されていたと考えられます。
考古資料と、文献に記されることを重ね合わせるとどうなるでしょう。前回記事でも書きましたが、『日本書紀』は神武天皇の巻の最後に、
と記します。
例えば、大己貴神を祀る一族が紀元前5世紀頃大和に稲作を伝え、紀元前2世紀頃に饒速日命を祖とする氏族が大和に来て銅鐸祭祀を広めたと仮定したらどうなるでしょう。
以下、諸説紛々あるでしょうが、一つの見方としてお読みください。
出雲のルーツ
中国では春秋時代。紀元前473年に呉が滅びます。大己貴神を祀る出雲の民は、呉から来た人々ではないかと考えます。中国の史書に、倭人は「謂太伯之後」(自ら太白の後と謂う)と記されています。太伯とは呉の祖とされる人物です。呉は龍蛇信仰です。素戔嗚尊の八岐の大蛇、大物主の化身白蛇、肥長比売など蛇にまつわる伝承が数多く伝わります。稲作自体はすでに九州に伝わっていましたが、この出雲の民が全国に稲作を広めたと考えられます。
物部のルーツ
紀元前2世紀頃、大和へやってきて銅鐸祭祀をもたらした人々。中国では、紀元前224年に楚が敗れ、221年秦が国土を統一します。敗れた楚や越の人々は万里の長城建設の労役に駆り出されますが、その一部は朝鮮半島へ逃げ、馬韓が土地を割き与えて居住させます(魏志韓伝)。その中に海人族の越人と共に海を渡り日本へやってきた楚の民がいたと考えます。楚人は鳥霊信仰です。楚人で高皇産霊尊・饒速日命を祖とする人々は先住の大和の民を銅鐸祭祀で導き、連合体を形成していきました。後の物部氏です。一緒に渡来した越から来た天火明を祖とする海人族 尾張・海部氏の先祖達も近畿北部・北陸越の国・紀伊・伊勢・尾張の海岸部へ広がっていきます。
神武天皇
第三の画期は神武天皇です。神武天皇は日向神話の通り山の民(山幸彦)の子孫です。かなり古い時代に南九州にやってきた民の子孫ですので縄文人に分類しても良いのかも知れません。
海人 阿多隼人(海幸彦の子孫)を従え、塩土老翁から聞いた四方を青山に囲まれたうまし国へ旅立ちます。途中、海神 豊玉彦を祖とする海人族の椎根津彦が加わって大和を目指します。
神武天皇が大和へもたらした画期とは何か。それは祭祀で言えば鏡です。弥生中期まで銅鐸の鋳造を主導していた大和ですが、後期に入り周辺地域の銅鐸が大型化するのに対して、大和では大型銅鐸の出土は極めて少なくなります。いち早く鏡などの新たな祭祀へ移行したものと考えられます。
ただ、真の画期は、新しい農耕祭祀ではなく、国家をつくる、国家のシステムを構想したことにあったと思います。そのために統治の証として鏡が用いられるようになります。
しかしその「構想」は神武天皇のものではなく、おそらく日向神話と神武東征譚に登場する塩土老翁や椎根津彦が考えたことではなかったかと私は思っています。
「海のネットワークを持つ者が、天孫降臨伝説を持つ唯一無二の王家を頂いて、大和の地で新しい国を建てた」。
高度な技術を誇る者、強大な軍事力を誇る者が国土を統一しても、内部から崩壊したり、凌駕する別のまた新しい勢力があらわれたりします。 神武東征の時代に隣国でそのような事が繰り返されていました。だからこそ新しい国を興そうとした者は、唯一無二の存在を頂くことにしました。不易流行、世の中が移り変わっても、普遍のものがある限り国は滅びません。その建国の考えと、唯一無二の血統を守ったからこそ、戦国時代においても、幕末に外国が植民地化しようとした時も、日本という国家が分断されず今に至るまで存続できたのだと思っています。
しれっと神武天皇と建国の話しに結びつけましたが、今回は鏡の話しで締めます。鏡と言えば、中国でほぼ発見されない(2014年に洛陽で初めて発見?)三角縁神獣鏡が卑弥呼と相まって一人歩きしていますが、銅鏡は中国では戦国時代から使われていて、日本にも弥生中期にはすでにもたらされています。内行花紋鏡や後述する多鈕細文鏡などが弥生遺跡から出土します。
臍見の長柄の丘岬の猪祝
猪祝の伝承地とも言われる葛城山の東南麓、御所市名柄遺跡から、大正7年に多鈕細文鏡と銅鐸が共伴して見つかりました。多鈕細文鏡自体全国で11面しか出土していない珍しいものですが、銅鐸と一緒に発見されるのは 極めて珍しいケースです(鏡は河内国大阪府柏原市の遺跡でも一面発見されています)。
この多鈕細文鏡が神武天皇が伝えたという証拠はありません。ですが、想定する時代に銅鏡が大和に伝わっていたことは事実なので、妄想でもそれが全く的外れではないと思っています。ちなみに名柄遺跡は、第2代綏靖天皇高丘宮伝承地と約1キロの至近距離にあります。
余談ですが、長髄彦との戦いで金鵄が現れて敵を目眩まします。あれはおそらく鏡で太陽光を照射したものだと私は思っています。
長くなってしまったので今回はここまでにします。次回 は書き残した高尾張邑の土蜘蛛討伐と神武天皇橿原宮即位です。