人生はアコーディオンでしょう?
ピアノも弾けないのに
アコーディオンを選ぶ子どもだった。
小学校のときの学芸発表会(私はこう呼ぶ)、私の学校は偶数学年で劇を、奇数学年では器楽を演奏することになっていた。
偶数学年の劇では『大きなカブ』『マジョリン』『走れメロス』を全員でやり、私はときに村人A、ときに魔法使いB。
高学年でやった『走れメロス』では音響係になって、その場面にふさわしいクラシック音楽を選択して流す、という役目。
奇数学年の器楽の演奏では、それぞれ『ナゾの童謡』『G線上のアリア』『アフリカンシンフォニー』を全員で発表したが、たいていの生徒がリコーダーか鍵盤ハーモニカ。
ちょっとおしとやかな女の子が木琴や鉄琴を選び、パワフルな男の子が打楽器をズッタカドン。
私はといえば?
必ずアコーディオンを選んでいた。
毎回決まってテナーアコーディオン。
アコーディオンを選ぶ子どもは、木琴や鉄琴と同じくおしとやかな女の子。男子でアコーディオンを選ぶのは少数派である。
なぜアコーディオンを選んでいたかというと、理由はカンタンで、なんか「ぽい」からだ。
このnoteで何度も書いてきたが、私は少しだけ人と違っていたい。子どものときからそれは変わらない。
アコーディオンの魔法。
アコーディオンに空気を入れるべく、左手をゆるやかに動かし、同時に右手で鍵盤を弾く。この左手と右手で別の作業をするという魅力。子ども心にすばらしいと思った。
私はピアノを習ったことがないから、楽譜も読めない。自分で楽譜にドレミファソッソと書く。
アコーディオンの鍵盤のどこが「ド」でどこが「ファ」なのかもわからない。だから透明なセロテープを鍵盤に貼って「ド」と書き「ファ」と書き、カッキカキ。
初めてのアコーディオンに「テナー」を選んだ理由は「なんとなく」であった。
「テナー」というのは、詳しいことはよくわからないが、演奏の主旋律を奏でるものではない。なんていうの? 主旋律の後ろに流れる音色を奏でるのだ。
私は女子と仲良く会話する男の子ではなかったから、一人で黙々と練習したものだ。朝の授業が始まる前、みんな一斉にそれぞれの楽器を持って練習する。休み時間も放課後も。
ピーヒャラドンドン。ブンブクチャガマ。
リコーダーなどで主旋律を奏でていれば、練習中でも「あぁ、この旋律は全体のこの部分だな」と思えるが、テナーアコーディオンの場合はそうもいかない。
いま練習している部分が、全体のどの部分を担っているのかが、わかりそうでわからないのである。
初めてテナーアコーディオンを弾いたときは「うーん、よくわからん」と不安になったもので「本当にこれで合ってるのか?」と疑問にすら思うんだけれど、これが学年の全体練習になるとガラリと変わる。
すべての楽器の音色が混ざった瞬間。
私の不安や迷いが美しく消えるのである。ベッドの下のホコリを、吐息でフーッとふいたときのように。
なくてはならない音色だとわかるのだ。
主旋律の後ろで流れる、音の空白を埋める音。
テナーアコーディオンの音は、
主旋律を支えるのである。
小さな上半身に大きなアコーディオンをよっこらせと抱えて、不安だなぁと思っていたわたし。
演奏するアコーディオンの音色が、全体のハーモニーに必要不可欠だとわかったその瞬間、私が感じる高揚感。
ぜひ、想像してほしい。
モン・サン・ミシェルをはじめてみたときのような「わーっ」という顔になるんだ。うれしいんだ。「これですかぁ!」という感覚になる。
だから、どんなときも私は
テナーアコーディオンを選んできた。
リコーダーの友だちから「またアコーディオンかよ」と言われても「フハハハ」と答えるだけで、誰にその理由を話すでもなく。
私一人だけが知ってる秘密のやりがい。
いつもいつもアコーディオン選んでいた。
たぶん、この楽器選びってのは、それぞれの人生での役回りにも共通するものがある気がしている。
得意なもの苦手なもの、興味のあるものカッコいいもの。一人一人がそれぞれの楽器を選んで、みんなで大きな音を演奏する。
私の場合は、大きなメロディの中の主旋律担当じゃなくていい気がしているのだ。主役じゃなくたっていい。
ある潮流の中に必要な、ちょっとしたアクセントでありたい。渦の中心にいるのは私じゃなくていい。
でも、
すこし人と違っていたい。
ピアノをやるほどではない。リコーダーや鍵盤ハーモニカみたいな、多数派を選ぶでもない。かといって打楽器をやるような胆力を持ち合わせていない。
だからアコーディオン。
そうやって生きてきた気がするよ。
秘密のやりがいを両手にいっぱい抱えてね。
ほうら、タイトルの通り。
私の人生は、アコーディオンでしょう?
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