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夏も終わるから『若者のすべて』の全てを解説したい。

この曲が似合う季節になってきました。
みなさん、最後の花火はご覧になりましたか。
まだですか。

今日はフジファブリックの『若者のすべて』について書きます。敬意を表して、敬語で書きます。

どうせ書くならば、この記事を読めば『若者のすべて』がどんな楽曲なのかを理解できる、そんな網羅的な記事になればいいな、と願っています。


それでは楽曲の世界に踏み込んでみましょう。



▶︎1.若者のすべての概要

『若者のすべて』は日本のバンド、フジファブリックが2007年に発表した楽曲です。

フジファブリックについて簡単に紹介すると、2000年に志村正彦さんが地元の山梨県富士吉田市で高校時代のコピーバンドのメンバーだった渡辺隆之さん、渡辺平蔵さん、小俣梓司さんと共に結成したバンドです。


●作った本人はすでにこの世にいない
作詞作曲をおこなっていた志村正彦さんは、2009年のクリスマスイブに29歳という若さで亡くなってしまいます。『若者のすべて』は彼が27歳で発表した楽曲です。


●この曲の評価
この曲は、夏の終わりの雰囲気を描いたミディアムチューン。チクタクと時を刻むように進むビート、郷愁を誘うメロディ、“切ないサイケデリア”と称すべきサウンドが響き合うアレンジを含め、発表から15年が経った現在もフジファブリックの代表曲として根強い支持を得ているようです。

●根底に流れているもの
『若者のすべて』の根底にあるのは、どうしようもなく過ぎ去ってしまう時の流れ、そして、そのなかで生まれる感傷や後悔、未来に対する微かな光です。

それを象徴しているのが、〈最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな〉というサビのライン。

大切な人との出会い、かけがえのない経験もやがて過ぎ去り、記憶や思い出となって色褪せていきます。時間の流れの中にしか存在できない人間の本質を叙情的に映し出す『若者のすべて』が、今もなお多くのリスナーを魅了し続けているのは、この楽曲が普遍的なテーマを捉えているから、といえるようです。

●wikipediaによれば

作詞者の志村正彦曰く、「夏の終わりの最後の花火大会が終わった後の切なさや虚しさなど、感傷的になり考えてしまう所を歌った曲」。

曲中にある「花火」は、志村の地元である山梨県の河口湖で上がる花火をイメージしている。

志村急逝後の2012年12月22日から24日までの3日間、志村の故郷富士吉田市にて歌詞の通り夕方5時のチャイムとしてこの曲が流れた。

教育芸術社が刊行する高校音楽の教科書「MOUSA 1」(令和4年度版)に、時代を彩る歌唱教材・2000年代を代表する曲として本楽曲が掲載される。


●要するに

・夏の終わりを感じさせる普遍的なテーマ性を持った曲
・作者が既に他界しているという無常感
・多くのアーティストや教育界などからも評価を集めている名曲


▶︎2.コード進行について

ここに関しては私は専門家ではないので分かりません。ただ、YouTuberの「ドクターキャピタル」さんのコード解説動画が分かりやすく「だからセンチな気持ちになるんだな」と思わせる説得力があります。

この楽曲のAメロのコード進行は感情を交互に揺さぶる仕組みになっているようです。ドクターキャピタルさんの言葉を拝借して言うなら「立ち上がって、走り回って、ソファに座るような安心感」と「やさしさ、美しさ、インスピレーション、そして愛」が交互に交わっているために「聴き手に安心感と切なさをもたらす」らしいのです。


●コード解説についてはぜひ、こちらをご覧あれ。




▶︎3.歌詞の解釈と隠された押韻

<1番>
真夏のピークが去った
天気予報士がテレビで言ってた
それでもいまだに街は
落ち着かないような気がしている

いきなり情景描写から始まります。具体的です。季節は夏の終わり。テレビを見ている主人公は「夏のピークが去りました」という天気予報士の言葉をぼんやり部屋で聞いていますが、まだ完全に夏が終わっていない感覚を持って過ごしています。

ちょうど今頃の季節でしょうか。

ちなみにこの歌詞はめちゃめちゃ「a」と「i」で韻を踏んでいます。

真夏(manatsuno)のピークが(pi-kuga)去った(satta

天気予報士が(yohoushiga)テレビ(terebi)で言ってた(itteta

それでもいまだに街は(imadani machiha

落ち着かないような気がしている(ochitsukanaiyouna kigasiteiru)



夕方5時のチャイムが
今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なもので
ぼんやりさせて

次は聴覚に訴えかけてきます。夕方5時のチャイムです。きっと田舎の町でしょう。聴き手の中にそれぞれの5時のチャイムが響きます。いつもはぼんやりと聴いている5時のチャイムがなぜかこの時は主人公をセンチな気持ちにさせます。

「なんだか」というフレーズは、主人公すらも気づいていない曖昧な感情を表現してそうです。主人公の過去に何かあったのだろうと想起させるフレーズですね。

過去に何があったのかはこの時点ではわかりません。夕方5時のチャイムを聴いた時のなんだかセンチな感情が何かわからないので、「運命」という便利な言葉でぼんやりさせちゃえ、とこんなところでしょうか。

ここでも「a」と「e」と「u」で韻を踏んでいることにお気づきでしょうか?

夕方(yu-gata)5時のチャイムが(chaimuga

今日は(ha)なんだか(nanndaka)胸に響いて(munenihibiite

「運命」(unnmei)なんて(nannte)便利な(bennrina)もので(de

ぼんやりさせて(bonnyari sasete


最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

夏の風物詩の花火が登場します。儚く美しい花火です。「何年経っても思い出してしまうな」というフレーズが出てきたことで、主人公はおそらく過去に失恋してしまっていることがここで示唆されます。

きっと昔大好きだった恋人と同じ花火を見ていたんでしょう。今は一緒に見ていません。注目すべきは「最後の花火に今年"も"なったな」という表現です。去年も一昨年も一人で花火を見ていたんでしょうか。

別れてしまった大切な人を忘れられない時間的な長さを感じさせる””です。ただ、この曲が刺さらない人もいます。青春時代に淡い恋の経験がない方たちです。

『若者のすべて』と検索すると「良さがわからない」というサジェスチョンが出てきます。ある種のひがみみたいなものですが、それはご愛敬でしょうか。

さらにここでは「a」と「i」と「o」で踏んでいます。

最後の花火に今年もなったな(saigono hanabini kotoshimo nattana

何年経っても思い出してしまうな(nannnenn tattemo omoidashite simauna



ないかな ないよな
きっとね いないよな
会ったら言えるかな
まぶた閉じて浮かべているよ

別れてしまった恋人にはもう会えないだろうなあ、と思っています。「ないかな?」という疑問形に「ないよな」と自分に言い聞かせて「きっとね いないよな」とさらに言い聞かせているところがまたセンチです。完全に引きずっています。

みなさんにもこんな経験はありますかね。私は余裕であります。若き私は「いないよなぁ、無理だよなあ」と札幌駅を徘徊したものです。

ただ、この主人公。いかんせん引きずっています。多分もう会えないよなあと自分に言い聞かせていたと思ったら「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」ときました。シミュレーションしています。まぶたまで閉じて。


韻ですが「a」と「i」で踏みまくりです。

ないかな ないよな(naikana naiyona

きっとね いないよな(kittone inaiyona

会ったら言えるかな(attaraierukana

まぶた閉じて浮かべているよ(mabuta tozite ukabeteiruyo)



ここで1番の歌詞が終わります。


●ここまでをまとめると、
・過去に別れてしまった恋人がいる主人公
・恋人と夏の花火を一緒に見に行った過去があり、
・別れて数年後の夏の終わりに、センチな気持ちになっている
・花火を一人で見てさらにセンチに
・また会えたらいいなあ、でも無理だよなぁ
・でももしも会えたら…まだ好きだよって言えるかなあ
・シミュレーションしてるわ、俺ってば

要するに、別れた元カノを徹頭徹尾引きずっています。

それから、韻を踏みまくり。


ここから2番に入っていきます。

<2番>
世界の約束を知って
それなりになって また戻って

「世界の約束」ときました。これはなんでしょうか?世界の約束ですから、「社会のルール」と解釈できそうです。

主人公は学生ではなくすでに社会人なのかもしれません。あるいは「世界の約束」=「恋愛のルール」という解釈もできるかもしれません。学生時代の恋人と別れ、一人かと思ったらその後付き合った人もいた、と。

少し大人になってからの恋愛で男女の違いを理解し、それなりの男性になったはなった。しかし「また戻って」ですから、やはりあの頃の恋人が一番だった、と思っているのかもしれません。


ここでは「e」で踏んできます。
飽きが来ないように少し変えてきました。

世界(sekaino)の約束を知って(shitte

それ(sore)なりになって(natte) また戻って(modotte



街灯の明かりがまた
一つ点いて 帰りを急ぐよ
途切れた夢の続きを
とり戻したくなって

街灯の明かりが灯っていくあの光景、懐かしいですね。一つ一つじんわりと明かりが灯っていくんですよね。時間は18時くらいでしょうか。夕暮れです。田舎の町で過ごした小さなころが思い出される描写です。昼と夜の間のあの光景が見えてきます。

「途切れた夢の続き」とはなんでしょうか。ここでは仮に「途切れた夢」=「恋人といつまでも仲良く幸せにいられた未来」としておきましょう。

別れてるんだから途切れているわけですね。それを「取り戻したくなって」いるので、やっぱり何年経っても忘れられないのでしょうね。


ここではそれほど多くの韻を踏んでいませんが、よく見ると「a」と「o」で踏んでいることが分かります。

街灯の明かりがまた(gaito-noakarigamata

一つ(hitotsu)点いて 帰り(kaeriwo)を急ぐよ(isoguyo

途切れた(ta)夢の続きを(tuzukiwo
とり戻したくなって(torimodoshitakunatte)



最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

夏の最後の花火を見ています。相変わらず時間の経過を感じます。何年経っても思い出してしまうような大恋愛。やっぱり、そういう経験のない方には全く響きません。「ずっと何を言ってるんだ」と思ってしまうかもしれません。


ないかな ないよな
きっとね いないよな
会ったら言えるかな
まぶた閉じて浮かべているよ

やっぱり自分に言い聞かせています。
無理だと言い聞かせているものの、一応シミュレーションしています。果たして主人公はまた会えるんでしょうか?そして言えるんでしょうか?



すりむいたまま
僕はそっと歩き出して

「すりむいたまま」ということは、負ってしまったキズをそのままにしているということなので、失恋のキズをそのままにして、前に進もうとしている意思が感じられます。

「そっと」と書いてるのがなんともこの主人公の所在なさを描写しているようです。



最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

大サビにきました。引きずっています。
失恋のキズを何年も負ったままの主人公です。「どうせ再会するのは無理だから前に進もう」と決心したものの、変わらず引きずっています。

再会できた時のシミュレーションの成果は果たして生きるのでしょうか?


ないかな ないよな
なんてね 思ってた
まいったな まいったな
話すことに迷うな

会えましたね、これ。元カノに再会してます。

「なんてね 思ってた」というところに主人公の喜びが感じられます。「まいったな まいったな」です。偶然会えちゃったんでしょうねこれ。狼狽してます。「話すことに迷うな」と言ってますが、ちょっと待て、と。

この時のためにまぶたを閉じてシミュレーションしてきたんちゃうんかい!とツッコミたくなる気持ちをグッとこらえます。

そりゃあ、いくらシミュレーションしても、いざ会ったら言葉は出てきません。話すことに迷ってもいいんです。主人公は別れてからも恋愛はきっとしているようですから「変に女性慣れしてるな。こいつ世界の約束を知ったな?」と思われないように注意が必要です。朴訥として「昔といい意味で変わってないなあ」と思われるようにしなければなりません。がんばれ!


もはや「a」で韻を踏みたい鉄の意思が伝わってきます。
これらの韻はおそらく偶然ではなく、完全に明確な意図をもって作られていることが分かりますね。

ないかな ないよな(naikana naiyona

なんてね 思ってた(nanntene omotteta

まいったな まいったな(maittana maittana

話すことに迷うな(hanasukotoni mayouna


最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな
同じ空を見上げているよ

一緒に花火を見てます。ここまで「最後の花火」は「夏の最後の花火」を描写していましたが、ラストの「最後の花火」は元カノと一緒に見ている花火の「最後の一発」なのかもしれません。

主人公はドキドキしています。「僕らは変わるかな」ですから、別れてしまったものの「この後に復縁できるかな?どうなるんだろう?」と思ってそうです。邪推でしょうかね。

そして「同じ空を見上げているよ」でこの曲は結ばれ、その後どうなったのかは聴き手の想像にゆだねられる形でこの曲は終わります。

元カノも同じ気持ちでいてくれたらいいですよね。


最後のラインでは「a」と「o」で韻を踏んできます。最後に「o」を多用し「o」で終わるため、聴き手や歌い手に解放感を与える効果が隠されています。押韻を用いたカタルシスまで計算に入れている緻密な歌詞に、脱帽からの土下座です。

最後の最後の花火が終わったら(saigono saigono hanabiga owattara

僕らは変わるかな(bokuraha kawarukana

同じ空を見上げているよ(onazi sorrawo miageteiruyo


歌詞の押韻が効果的な楽曲として、Official髭男dismの『Pretender』が挙げられます。『Pretender』もまたAメロから韻を踏みまくっている楽曲ですが、参考までにサビだけご紹介します。「ai」で韻を踏みまくっていることにご注目ください。

<Pretender サビ>
グッバイ(gubbai)君の運命の人は僕じゃない(janai

辛い(tsurai)けど否めない(inamenai

でも離れ難い(gatai)のさ

その髪に触れただけで痛いや(itai)いや でも

甘いな(amaina)いやいや グッバイ(gubbai

それじゃ僕にとって君は何(nani

答えは分からない(wakaranai

分かりたくもないのさ(wakaritakumonainosa)

こうしてみると、ヒット曲には韻が隠れているのが分かります。フジファブリックの『若者のすべて』の韻も『Pretender』に負けていませんよね。ヒゲダンの『Pretender』のサビでは明らかに気持ちのいい語感を選んでいることから若干の違和感があるのに対し、『若者のすべて』はこんなに自然に韻を踏んでいるのに違和感がありません。こんな楽曲がほかにあるでしょうか(反語)。


▶︎4.なぜ多くの人の心を捉えるか

この楽曲に共感できるのは、学生時代にピュアな恋愛をしてきた人たちであるように思われます。「俺も、あたしもそういう時あったな」です。裏返せばそんな経験がない人たちには全く刺さりません。ミリ単位で刺さりません。

さらに言えば、日本人は古来から「夏がめっちゃ好き」ということも、心をとらえる理由として挙げられそうです。「花火」という儚くも美しいものと恋愛を重ねているところもGOODポイントです。

また、状況が似た楽曲として、山崎まさよしさんの『One more time,One more chance』が挙げられます。代表的失恋ソングであり、夏の描写が出てきます。

『One more time,One more chance』が靴の裏を舐めてでもヨリを戻したいと必死に歌っているのに対し、『若者のすべて』はふんわりと失恋を歌っています。

フジファブリックは向かいのホームで元カノを探さないし、路地裏に行くこともありません。桜木町にも行かないし、新聞の隅を凝視することもない。

さらに、タイトルが『若者のすべて』となっているところもまたオツなところです。例えばこんなタイトルにすることもできたはず。

・『最後の花火』
・『会ったら言えるかな』
・『ぜったいないよね』

山崎まさよしが『One more time,One more chance』で、メインターゲットを「失恋した人」に絞っているのに対し、フジファブリックは『若者のすべて』です。この楽曲のターゲットは「若者」であり、「かつて若者だった人たち」、すなわち全ての人たちです。全部を包んでしまっています。

このタイトルは、ものごとを婉曲的に表現し、奥ゆかしさを好む日本人の感性にもマッチしている気がします。この楽曲を作った志村さんはそれを分かっていたのでしょうか。今となっては分かりません。


▶5.この楽曲に対する人々の反応

少し紹介すると、

夏と若さの短さを教えてくれた曲。

イントロから常人には表現できないような哀愁を漂わせるのほんとすごい

好きすぎて、あんまり聴けない。聴くときは意を決して聴いてる

初めて聞いたのに遺伝子レベルで組み込まれているんじゃないかと思うくらい懐かしく感じる音楽

こういう究極の曲を1曲でもリリース出来たら成功だと思う



▶︎6.実際に聴いてみよう



▶︎さいごに

怒られるかもしれないのですが、実を言うと筆者である私は『若者のすべて』を避けて生きてきました。聴き始めたのはつい最近です。「え、めっちゃええ曲やん!調べてみよ!」です。

押韻についても、なんだか違和感を感じ、口ずさんでいたところ「いやめちゃくちゃ韻踏んでるやんけ!!!」となりました。心地よい耳障りのための作者の努力と、圧倒的国語センスが垣間見える気がします。



もうすぐ夏も終わります。
私が暮らす北海道の夏は特に短いです。


しんみりとセンチな気持ちになったら、この楽曲を聴いてみるといいかもしれません。


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