「役に立たない」と思われる文章の価値を「風流」という美意識から考える。
風が吹く。
いつ、どこから来たのか、だーれも知らない。見えない力が木々を揺らし、街角の葉を舞い上げる。その流れには秩序がない。予測不能な動き。目には見えず感じるだけの存在。それが「風」。
「風流」という字は「風」が「流れる」と書いて風流という。いかにも奥ゆかしい美しい日本語だと思う。風流なものと風流じゃないもの、どちらが好きかと問われればきっと「風流なもの」を選びたいと思う。
しかし思う。
現代社会はこの「風流」の価値を忘れ去ろうとしているのでは?
周囲を見渡せば、「役に立つもの」ばかりが称賛されている。効率的な情報や便利なツール。SNSには「時短テクニック」や「生産性向上の秘訣」があふれ、この空間に跋扈する記事も「成功するためのステップ」や「効果的な文章術」ばかり(ばかりではないか)。だが、その一方で私たちは「無駄なもの」「役に立たないもの」の中に潜む美しさを見失っている......のではあーりませんか?
話を変えて「水流」はどうだろう。水は地面を流れ、重力に従って常に下へ向かう。目指す先はただひとつ。同じ水が集まるところ。つまり秩序と目的に従った二次元の動きだ。効率的で実用的、現代社会の理想の象徴。
しかし「風流」は違う。風は空中をただよい、三次元の空間を無秩序に進む。目的などない。ただそこにある無駄な動き。だが、その中にこそ美しさが宿る。風流とは、まさにこの無駄に挑む姿勢であり、便利さに抵抗する自由の表現。
先日、私は仕事帰りに、いつもなら歩かない道を選んだ。最短ルートではなく、意図的に遠回り。曲がりくねった小道を歩きながら、古い商店街に迷い込む。その途中で見つけた、時代に取り残されたような喫茶店。外に置かれた看板には「アイスコーヒー450円」の文字。無駄な時間、何の生産性もない寄り道だったが、その小さな一瞬が一日の疲れを癒したような。
これこそ「風流」の一例だ。風流は、無駄を恐れないこと。あえて便利さから離れ、無意味なものを楽しむ挑戦。
例えば、着物をあえて着崩すという美意識がある。完璧に着付けるのではなく、あえて帯を少しゆるめたり、袖をたくしあげたりする。その乱れの中にこそ、人間の息遣いが感じられる。完全無欠であることを求めない、無駄を受け入れる美しさ。それが「風流」の精神である。
よく見るだろう。現代の「文章術」。すべてが効率的で、効果的で、読者の関心を引くために最適化されている。読みやすい構成、SEOに強いタイトル、短いセンテンス。素晴らしいことこの上ない。しかし。
本当に心に響く文章は?
どうだろうなぁ。
人気のあるエッセイストや文筆家たちは、いや、この空間にいるほぼ全員は、この「風流」の精神を持っていると思う。
彼ら彼女らの文章には意図的な「無駄」があり、予測不能な展開がある。決まった形式に囚われず、あえて逸脱する。読者が驚き、考え、感じる余白を残す。技術の有無は関係ない。
それこそが文章における「風流」であり心に残る理由だと思う。素晴らしい文章は役に立つことよりも「感じること」に重きを置いている。意図的に風流さを装う文章はすでに風流ではなくなる。
古本屋で偶然手に取った中原中也の一冊の詩集。何の目的もなく、ただ手に取っただけ。その詩の一節。
まったく無意味だ。
だが、言葉が持つ「風流」の力。見えないがたしかに感じられる、美しさと自由さ。こうした「風流」の要素が、真に価値のある文章には欠かせない。
風流は、見えないものを感じさせる力だ。風の動きが木々を揺らし、空気を震わせるように、私たちの心にも影響を与える。現代の「役立つ情報」や「効率的な文章術」には、この「見えない価値」への気づきが欠けている。効率や実用性を追求するだけでは、本当に大切なものが見えてこない。風流こそ、その答えを持っている。
無駄への挑戦。便利さへの抵抗。風流をもう一度見直してみる。無駄な時間や役に立たないことを楽しむ余裕。そうした中に、思わぬ発見がある。風流とは、無駄の中に隠された美しさを見つけること。
風が吹く。ただそれだけで、私たちの心に何かが生まれる。その程度でいいのだと信じて疑わない。
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そのむかし、勝手にリレーエッセイというクソ企画をやった。「有意義で無意味」をテーマにみなさんにエッセイを書いていただいたことがある。
今日書いた主張を証明したくてやってみた。
そして悪くなかった。みんな無意味なエッセイを書いたはずなのに、私はみんなのエッセイをちゃんと覚えているから。
役に立たない風流な文章。
ま、自分で自分を「風流だ」と言っている時点でそれは風流ではないんだけどね。
【マガジン】有意義で無意味なエッセイたち