noteを手段として使ってみる
こんにちは、お久しぶりです。
noteをはじめてはや1年。
日常で見つけた素敵なこと、気になったこと、学んだこと、言いたいこと。
そういう「幸せな些細なこと」をためておきたくてnoteを始めたんだけど、言語化ってなかなかハードで結局諦めてしまったり、書き終えることなく下書きにプール状態。
そこでふと思った。
「なんで下書きにしてあるの?」
人のため。
人に見せるにはあまりにも荒削りだから。
でも私のノートなんて間違えてたどり着く人の方が少なくない?
自分のため。
言いたいことがうまく言語化できないまま「完成」ということにされてしまう違和感。
でも後からだって文章は編集できるし、うまく言語化できてもできなくても、私がそのことを感じたり思ったりした事実は変わらない。
...あれ、実は私って人のためとか自分のためと言い聞かせて、無理やりnoteを「完成されたものでなくてはならない」って決めつけてきただけなんじゃない?
!!!!!!(なるほど!)
つまり、私がこのnoteを完成された文章でなくてはならないというルールを取っ払ってしまえば、このnoteは完成された文章である必要がなくなる!!
ナンテコッタ!
そんなものさっさと取り払ってしまおう〜
とはいえじゃあこのnoteはなんのためにあるのか、と言ったらそれはもちろん自分のための「幸せな些細なことホルダー」であってほしい。
noteは、そういった幸せな些細なことをかき集めて整理していく過程の、「書く」という行為をするための手段である。いや、正確にはそうしたい。
文章を書いたり人と話したりしていると、言葉を選ぶプロセスを通していろいろな気づきがある。
以前Tくんの話でも書いたことあるけど、自分の言葉がブーメランしてきてぐさっと刺さることって結構ある。
むしろ自分の言葉だからこそ刺さるのかもしれないけど。
そういう気づきって、書く・話すといった能動的な行動なしに得ることが難しい。少なくとも私は。
そう!だからこのnoteを使う。
他の人も見れるけど、あくまで私のためにあるnote。
なんだかこれまでよりも大胆に、大切に付き合えそう。
というわけで、これからのnoteは、私が思考を整理する過程で自分の言葉や考えから気づきを得るための手段として使っていきたい。
読みものとしてのnoteではなく
書くという行為をするためのnote。
まあなんかかっこよく言ってみたけど、
俗世に生きる私はなんだかんだ他の人のことも意識するし
ハチャメチャな文章をそのまま載せてしまうようなこともできないだろう。
これはひとまず、私の私に向けての宣言!
たくさん書いて、たくさん気づきを得て、たくさん学びたい。