ゴミを作り出している感覚。
クラスメイトが30人いたとして、30人全員に好かれることは不可能だ。私が断言するまでもなくそれは不可能。
少し考えてみれば、全員に好かれるということの難しさを、私たちは経験で知っている。
クラスメイト全員と真に仲がよかったかといえば、そうではないし、部活内のメンバー全員と仲良しだったかといえば、これもそうではない。
あなたのことが好きよ、と言ってくれるような恋人候補なんて、学年に1人いるかいないかではないか。少なくとも私はそうだった。
何度も言うがそうやって斜に構えてはいけない。
家族でさえもそうだ。父と母、妹や弟、分け隔てなく愛すべき存在だけど、仲がいい、そうでもないは必ずある。
こうして毎日文章を書いていると、できるだけ嫌われないように、不快な思いをさせないように、傷つけないように、細心の注意を払って記事を書いているような気がする。
そうすると、非常につまらない、ありきたりな、なんのひねりも新規性もない、ど畜生なカス文章ができあがる。ゴミだ。インターネット上にゴミを生み出しているようなものだ。
これ以上、Googleやnoteを困らせたくない。
環境によくない。
文章をこうして書いていると、万人に受け入れられたいと思うのが我々一般人だ。できるだけたくさんの人から支持されたいと思う心理がここにもある。
熱烈な支援者は1人いれば御の字だと思う。クラスメイト全員から好かれる必要はない。知り合い全員から好かれる必要もない。天気を操ろうとしてもムリだ。家族全員から好かれる必要もないじゃないか。
なぜ「熱烈な支援者は1人でいい」と思うかを書く。
私たちを支援してくれるようなそのたった1人は、マイノリティ。少数派だ。決して多数派ではない。でもその1人が日本各地に、あるいは世界各地に積み重なれば、それはもうマジョリティになる。つまり多数派だ。
むかし「文章を書く」ということを誰かに教えるときよく言っていたのは「たった1人に突き刺さる文章を書こう」である。テクニックなぞどうでもいい。心底どうでもいい。あ、やっぱどうでもよくない。
君の熱意や考えてることは何が新しいのか、何をおもしろいと思ってるのかを書いてほしい、と偉そうに言ったもので。
「え、たった1人だと読まれないじゃないですか」
「うるさいな、そのたった1人が世界中にいるんだタコ、いいから書け、イカ」
たった1人の脳天を突き刺すようなものを作りたい。脳天を垂直にぶち刺すような。ほかの多数派みたいな顔した人は知らんぷりでいい。向こうからも知らんぷりされるんだから。
だれか1人の脳天に突き刺した串は、いつかグングン伸びて、他のだれかの脳天にも突き刺さる。そう信じていないとやっていけない。
少数派が増えて、やがて多数決の臨界点を突破するとブームになる。受け入れられたという自尊心が芽生える。では、noteでの私は?
正直、このクソ狭い世界でその臨界点を超えた気がしてて、もう読み手様になんと思われようがどうでもよくなっている。ここ最近そう感じることが増えた。
人の顔色をうかがって、つまらんゴミでも作ってないで、誰かを驚かせるような、美しいものを作りたい。人からどう思われるかなんて気にせず。
狭い入り口の洞窟のほうが、
進んでみると奥深いことがよくある。
誰かにとってはゴミのようなものでも、またある誰かにとっては煌めく宝石のような文章になることもある。
やりたいことやろう。
って思うんだ。
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