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もう会えない、富良野のひいおばあちゃんとの思い出。
ひいおばあちゃんが大好きだった。
私は生まれた時から、母方のおばあちゃんと、ひいおばあちゃんしかいなかった。他の人たちは亡くなってて、父方の祖父は私の父が生まれる前に亡くなっていたし、父方の祖母は私が生まれる前に亡くなっている。小さな頃は比較する家族もいないので、私にとってはそれが当たり前だった。
母は下の記事でも書いたが、19歳で私を出産した。私のおばあちゃんは若くしておばあちゃんになったことになる。
だから、おばあちゃんは「ばあちゃん」と呼ばれることが嫌だったらしく「あーちゃん」と呼ばれている。私にとって、おばあちゃんは「あーちゃん」だ。由来は知らない。
自然、ひいおばあちゃんのことを「ばあちゃん」と呼ぶようになる。ばあちゃんは、北海道の富良野に住んでいた。北の国からの、あの富良野だ。
札幌近郊に住んでいた私たち家族は、毎年8月のお盆シーズンになると、富良野のばあちゃんの家に1泊、2泊をするのが年中行事のひとつだった。8月の富良野は天気がよくて、札幌から山道を抜けて富良野盆地に入ると、大雪山系の十勝岳連峰をバックに大パノラマビューが広がる。ヒマワリとラベンダー。あの美しい景色が死ぬほど好きだった。
兄妹みんなで
「ついたーー!!!」と叫んだものだ。
ほぼ全員がそうだと思うけど、ひいおばあちゃんというのは、ひ孫にとっては生まれた時からおばあちゃんだ。完全なるおばあちゃん。大好きだった。富良野で一緒になって虫を捕まえたり、オセロをしたり、水戸黄門を見たり、相撲を見たり。
ばあちゃんのしわしわの手を取って「しわしわだね」と言ったり。みんなで富良野の花火も見た。ばあちゃんが「あ、オケラだ、えいっ!」と言って踏み潰すのを見た時はみんなで引いた。ばあちゃんは気にしない。
「ばあちゃんは何歳なの?」とみんなで聞くと「48!」と答えてた。本当は84歳なのに桁を逆転させて年齢を答えてて、それがおもしろかった。「84歳じゃん!」とケタケタ笑ってた。
ばあちゃんは、いつも17時になると「さ、仏さんの時間だ」と言って、仏壇に向かって木魚をポクポクしながら念仏を唱えてた。私たちはその様子を不思議そうに見てた。仏間には先祖たちの絵が飾ってあって、仏壇には2人の男の人の写真が飾ってあった。1人は沖縄で戦死したばあちゃんの旦那さん。もう1人は戦争後に結婚した旦那さんらしい。私にとっては、どちらもひいおじいさんにあたる。
戦死した男の人は、学生服なのか軍服なのか分からないけど、白黒の写真に中性的な真顔で写ってて、子ども心に怖かったことを覚えている。
私が大学生の頃、沖縄に旅行に行くことがあった。あーちゃんとばあちゃんに「沖縄に旅行に行くよ」と言ったら「えっ!」と驚いて、こう言われた。
「沖縄に行くなら、おじいちゃんのところに行って、手を合わせてきてほしい。おじいちゃんは沖縄で戦死してるから」
そうなんだ、と思った。
「沖縄のどこに行けばいいの?」
「詳しい場所は分からないけど、慰霊碑に行ってくれたら名前があるはずだから」
そんなざっくりでいいのか?と思いながら沖縄に行った。友だち3人に「慰霊碑に行きたい」と頼んだ。「そういうの、いいじゃん」と言ってくれた。慰霊碑に行ったはいいけれど、やっぱり名前が多すぎて見つけるのはムリだった。万を超える名前の中から、ひいおじいちゃんの名前を見つけることは不可能だ。だから慰霊碑に手を合わせるだけにした。
北海道に帰ってからその報告をあーちゃんとばあちゃんにした。「ありがとうね」と言われた。
ばあちゃんが病気になって、札幌の病院に入院した。当時の私は大学生。特に授業も行ってなかったので、ばあちゃんのお見舞いに毎日行った。私の兄妹やイトコたちは、たまにお見舞いに行ってたけど、たぶん私が1番よく行っていた。ばあちゃん子だったし、時間もあったし。
90歳を超えての病気だから、死も近いだろうなぁと分かってはいた。ばあちゃんの病室に行っては色々と聞きたいことを聞こうと思った。ヒマワリとラベンダーをお土産に、しわしわの手をさすりながら。
「ばあちゃん、俺が生まれた時覚えてる?」
「ばあちゃんが子どもの頃はどんな時代だったの?」
「子育ては何が大変だった?」
「沖縄で亡くなったおじいちゃんはどんな人?」
「どうして富良野にいたの?」
ばあちゃんはほとんど寝てたから、あまり答えてくれなかったし、沖縄で戦死したおじいちゃんとの感動的なエピソードも特にない。長年の謎みたいなものが、ここで解明されることもなかった。
夏の深夜2時に、あーちゃんから私に電話が来た。ばあちゃんが危篤らしい。当時私は実家に住んでいたので、全員を叩き起こして、家族6人で急いで病院に向かった。深夜2時の病室には、ばあちゃんの長男で私の大叔父にあたる人も来ていて、「母さん!母さん!聞こえるか!」と言ってた。
みんなで代わるがわる、ばあちゃんの手を握ったけど、そのうちばあちゃんは死んでしまった。私たち兄妹からすれば、初めての身近な人の死。私の母も、兄妹もみんな泣いてたけど、私は不思議と涙が出なかった。死んでしまったのが信じられない。
お通夜、告別式の夜、私は棺に入ったばあちゃんのそばにずっといた。みんな酔っ払って、それぞれ寝てたけど、私はばあちゃんのそばで1人で寝た。ばあちゃん死んじゃったんだね。もう会えないんだね。
ひいおじいちゃんのお墓は、富良野の景色が一望できる墓地にあったが、ばあちゃんが亡くなったタイミングで、みんな札幌の納骨堂に入ることになった。ばあちゃんは私が22歳の時に亡くなったが、私が30歳になるまで納骨堂がどこにあるかも聞かされてなかった。だから8年間もばあちゃんに手を合わせたことがなかった。死んだのも信じられないし。ばあちゃんが好きだったからこそ行かなかったのか、自分の感情がよく分からない。
「え、納骨堂いこうよ」
そう言ったのは妻だ。
ばあちゃんの話を妻にしたこともなかったので、ひょんなことから納骨堂に行くことにした。別にお盆の季節でもなんでもない。
母に聞く。
「ばあちゃんって、どこの納骨堂にいるの?」
「東区の〇〇寺だよ」
「思ったより近いじゃん、行くわ」
納骨堂にいるばあちゃんに会いに行った。妻と2人で。季節は秋だった。お寺の納骨堂に行くと当然だれもいなくて、私たち夫婦一組だけ。ばあちゃんはどこにいるんだ?沖縄の時はひいおじいさんを見つけられなかったけど、今回は?
すぐに見つけられた。
こじんまりとした納骨堂に扉がある。
それを開く。
位牌があった。戒名が書かれている。
ばあちゃんの告別式で、ばあちゃんの戒名を覚えた。ばあちゃん子だから。位牌にはその戒名が記されている。8年ぶりだ。位牌を見た瞬間、富良野の景色や病室の光景、お通夜の夜に棺のそばで寝たことが思い出されて涙が出てきた。
だから、妻にバレないように無言で後ろで泣いた。涙が静かに頬をつたう、ってのはまさにあれだ。
「ばあちゃん、今日まで来てなくてごめんね、
ばあちゃんごめんね、ごめんね」
と何回も心の中で唱えた。
「ばあちゃん、おれ結婚したんだよ。
この人が奥さんだよ」
妻はそんな私に気づいてか、気づかないでか、テキパキとお供え物とロウソクに火を灯す。2人で手を合わせた。10月の札幌。
ばあちゃんはもう富良野にいない。親戚が富良野に住んでいるわけではないので、富良野に行くことはめっきりなくなった。仕事の出張で富良野に行くことがあると、ばあちゃんが住んでた家を見に行く。小さな頃にみんなで見た富良野の花火を思い出す。
もうすぐ、ばあちゃんの命日がやってくる。
お盆の季節もやってくる。
だから、今年も納骨堂に行って、
ばあちゃんに会いに行こうと思ってる。
ひいおばあちゃんが大好きだ。