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随想文「くさいもの」。

腐りきった魚の匂い。遠い宇宙の底で死んで、そのまま忘れ去られたかのよう。冷蔵庫の中に隠れていた小さな命の痕跡が、今やキッチン全体を支配している。ふたを開ける勇気がいるが、閉めていても不安は消えない。

公園のベンチで日が暮れかけたころ、犬の散歩にきた人がまれに残していくもの。草に紛れて見えないのが歩行者にとっては恐ろしい。気づかずに踏んでしまったときの足元から立ちのぼる匂いは、言葉にできない。

満員電車の中の、人混みから漂ってくる湿った布の匂い。汗がしみ込んだシャツや背広が織りなす、混沌とした香りのハーモニー。息を浅くしてみても、その濃密な空気からは逃れられない。なぜかこういうときに限って自分の行き先は終点であったりする。

冷えたタンスの奥から出てくる冬物のセーター。数か月間押し込められていた布地からは、湿っぽく古びた匂いが立ちのぼる。着れば体が暖まるだろうが、着る前にまずこの独特の香りを受け入れなければならない。毎年冬が近づくたびに、その覚悟が試される。

中華料理店の厨房から漂う油の焦げた匂い。おいしそうと思うのも束の間、その強い香りは服にも髪にも染み込んで、家に帰るまで消えることがない。それどころか次の日の洗濯まで残っていることに気づいたときの切なさ。

ゴミ収集車の音が聞こえてくると、なぜか慌てて歩く道を変えたくなる。臭いの到来を知るのは、耳で感じるよりも鼻が反応してしまうから。まだ収集車の横を通り過ぎていないはずなのに、もうあの香りが漂う気がしてくる。


「君のためなら何でもする」などと言われると、その場に立ち込めるのはロマンチックなムードではなく、むしろ気まずい沈黙。大げさで、非現実的で、聞いている女性の頭の中には一瞬「本気なのか?」という疑念がよぎる。現実の生活で、命をかける場面がどれほどあるというのか。それよりも、食器を片付けてくれるとか、仕事で疲れて帰ってきたときに一言「お疲れ」と言ってくれるほうが、はるかに現実的で心に響く。

「クサいセリフ」は、ある意味で現実逃避の産物。日常の些細な行動で愛を表現するのではなく、言葉という華やかな道具を使って、瞬時に自分を特別な存在に見せようとする。なるほどたしかに、ドラマや映画の中であればそれは格好よく映るかもしれないが、現実の生活では、そうした過剰な演出は違和感を伴う。むしろ、クサいセリフが飛び出した瞬間に、その人の足元がぐらついて見えるのは、言葉が現実を覆い隠そうとしている証拠なの。

時折この「クサさ」が笑いを生む瞬間もある。たとえ不器用であっても、そこに真剣さが垣間見えると、思わず微笑んでしまうのだ。クサいセリフは、ある種の人間らしさを感じさせるものでもある。完璧ではないがゆえに、そのセリフを発する人に対してどこか愛おしさを感じてしまう。クサいセリフは、匂いと同じように、どう扱うかによって印象が変わるのだ。

臭いものは、この世に溢れているが、なぜか忘れられない。それは一種の存在感であり、嗅覚を通じて我々に何かを思い出させる。忘れたくても、鼻は忠実。クサいセリフに匂いはないけれど、耳に残るそこはかとない臭さ。「照れ臭い」という字は「臭い」という語を使ってる。

耳にも嗅覚があるのでしょう。


<あとがき>
残暑はなくなり、外は寒い日々です。半袖で外にいるとさすがに風邪をひくのではないかと思うような寒さが続いています。私が住む北海道はそんな気候具合ですが、日本各地にいらっしゃるみなさんの場所はどうでしょうか。知らない土地に行くとその土地ならではの匂いがしますよね。北海道って、札幌って、どんな匂いなのでしょう。私にはわかりません。今日も最後までありがとうございました。

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