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古典への招待

日本のエッセイスト、いえいえ随筆家として忘れてはならないのが
白洲正子さん。
私が白洲さんに直接触れたのは東京の町田市にある『武相荘』。
公開間もない旧白洲邸を訪れた際に購入したのは、
正子さんの著書ではなく、
白洲次郎さんの著書『プリンシプルのない日本』だった。

このときまで次郎さんの存在を知らなかったし、
何よりこの本のタイトルに魅かれた。

白洲正子さんに大きな影響を受けていたのは母くらいの世代で、
当時の私は骨董や古典への興味もまだまだだったせいか
それほどその魅力がわからなかった。

ところが先日『新古今和歌集』を改めて手にしたとき
同時に白洲正子著『花にもの思う春』を読み始めた。
そしてぐいぐい引き込まれて、
なぜ白洲正子という人が支持され続けたのか今頃やっとわかった。

この本で和歌とはどのように味わうものかを教えてもらったように思う。

和歌としては万葉集や古今和歌集の方を好み
新古今集はそれほど好きではないといいながら
その歌集の歴史的背景、代表的な歌人たちの境涯を鑑みながら
客観的に歌を深く鑑賞し、日本文化の本質に迫っていく。

この本の渡辺保さんの解説にも心打たれた。

渡辺さんが正子さんの文章を読むと
生きる力「元気がでる」といい、
その3つの理由に
素人の立場、すぐれた人間性の洞察、本質への真直ぐな参入
を上げている。

専門家ではない普通の市井の人の視点で
想像以上の努力と冒険に挑戦していると。

詩を読み解く鋭い感性と深い洞察力に支えられながら
詩歌に対する深い人間的な共感に到達する。
あくまでも一人の人間としてどこまでも詩と人間を見つめ、
ものの本質にまっすぐに迫っていくのだと評している。
そしてその文章こそ、正子さんの「芸」だと。

そしてこう結んでいる。

「花にもの思う春」は単なる歌論書ではない。
白洲正子という現代の作家の「芸」までふくめて、
日本文化のなかの「芸」がどういうものであるかをあきらかにした精神史である。

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