公共って何?
こんにちは。2回目の投稿です。
図書館など文化施設を手掛ける、規文堂です。
今回は、少し難しいテーマですが、「公共」について書いてみたいと思います。
映画「パブリック 図書館の奇跡(原題:The Public)」を見て中の人が感じたことをベースにコラムにまとめてみました。
「パブリック 図書館の奇跡」について
ネタバレしない程度にストーリーを書いておきます。
主人公はオハイオ州の公共図書館で働くスチュアート(エミリオ・エステベス演)。街に大寒波が訪れ、シェルターも満員の中、行き場を求めるホームレスたちが図書館を(平和的に)占拠し、デモ活動を行います。
これに厳しい態度で対処する検察官や警察。支援する民間団体。様々な想いが交錯する、というお話です。
「図書館は公共の最後の砦」「図書館で暴力は許さない」など、多くの人が図書館を拠り所とし、大切に扱うシーンが印象的だったと思います。図書館をつくる会社から見ても、身に染みるものがありました。
公共って何なんだ?
さて、「公共」という言葉を聞くと「みんなが使える」というイメージを持つ方が多いかと思います。しかし、これを実践することの難しさがこの映画では入念に描かれています。
もしホームレスの方々を退去させなければ、図書館を楽しみにしている他の市民が不便な想いをするでしょう。一方、ホームレスの方々にとっては命に関わる問題なので、極寒の中で行き場が図書館しかない、更なる支援策を政治に訴えるのも当然のことかと思います。
このジレンマ的な状況に、公共って誰のもの?と疑問を持った人も多かったのではないでしょうか。
Wikipediaの「公共」の項目には、公共的な活動には大きく分けて2つのファクターがある、と書かれています。
1. 構成員から集めたお金(税金)を担保として、そのお金を活用して雇い入れた労働者(公務員)をつかって行う活動。政府・市役所・郵便事業・公共事業・公教育・警察・消防など。
2. 公務員ではない個々の市民が、ボランティアや寄付金などを原資として行う活動。慈善事業・NPO及びNGO・フリースクール・町内パトロール・消防団・自治会・住民運動など。
どうしても公共と聞くと、1の方、つまり「官」を意識してしまいますが、2のような「民」の動きも実は「公共」なのです。
映画では、図書館のデモを支援しようと市民や団体が駆けつけるわけですが、こちらも「公共」の一つの形だということですね。
そして、劇中の行き場をなくしたホームレスの方々は、官と民どちらにも入れなかった、孤立した存在として描かれているのです。
インクルージョンという考え方
先述したように公共には2つのファクター(官と民)があるわけですが、何となく二項対立として語られることも多いのではないでしょうか?
「役所仕事は遅い・・・」「民間は金儲けしか考えていない・・・」
しかし、システムが違うのですから、それぞれ一長一短あって当たり前です。
ここで大事なのは、官でも民でも良いから、結果的にすべての人が輪に加われるようにすることではないでしょうか?
そして、それを実現するためには、PFI事業のように官と民が交じり合ったり、もっと小さな分散型のコミュニティをたくさん作ったりと、これまで見過ごされてきた「公共」に目を向ける必要があると思います。
書籍「次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方」(若林恵 著、日経MOOK)では、このように小回りの利く活動により様々な人々の要望に応えていくことを「インクルージョン」と述べています。
そもそも、この考え方に至る背景として、日本社会に顕著な地方の人口減少、高齢化が挙げられます。
人が少なくなると、インフラ等を支えるための一人当たりの負担が大きくなり、ますます人がいなくなるという負の連鎖が起きてしまいます。近年は民営化を織り交ぜてやり繰りしていましたが、すべての人に平等なサービスを確保するという点が保証されるのか、疑問の声も上がっています。
これからは、巨大な資本に頼った大型インフラだけでなく、デジタル技術などを組み合わせた小さなインフラも必要になってくるのだと思います。
小さなインフラをつくる
規文堂も、少しずつですが「小さな図書館づくり」を始めています。
そのうちの一つとして、規文堂の本社があるエリア・唐橋地区に、まちライブラリーが誕生します。これについては追って別の記事で紹介したいと思います。
他にも、大学との共同プロジェクトや、書店への関わりなど、官民に関わらず様々な「小さなインフラ」作りにチャレンジし始めています。
自分たちが関わることで、多くの人々が文化的に交わるような活動ができればいいなと思います。
書いた人: 規文堂 東郷拓真
https://twitter.com/kibundo_kyoto
参考書籍: