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自我(ego)と自己(self)の調和で、「あるがまま生きる」ということ

少しずつ、こころの波が穏やかになるのを感じながら、
それでも、寄せては返す波が大きくなり、自我(ego)の声が大きくなることに翻弄されている瞬間も多い日々を過ごしていた。

毎週月、水、土のam.5:30-の瞑想配信でもたまにお話ししたりしているが、「ライフアウェアネスプラクティス(通称LAP)」に参加して、はや3ヶ月が経とうとしている。

着実にわたしの内なる部分での自己変容を遂げる足音が近づいてきている。
それを肌で感じられるようになってきた。
春の訪れともリンクしているのかもしれない。

昨日はDay5。
「セルフを生きる」というお題で、1時間30分ほど無目的に散歩するワークをした。

いろいろな体験と気づきが起こってきたのだが、そもそも、「自己(self)」とは何か、「自我(ego)」とは何か、について触れておきたい。

ユング心理学で提唱されているものだけど、ようやくわたしの中での腹落ち感が、心地よい今ここを迎えたので、以下に出してみる。
(調査したWeb情報を踏まえ、otokiによる解釈を含むため、理解の浅さがあったらぜひご指摘いただきたい)

自我(ego):
自分で意識できるこころの中心
人は、自我の窓を通じて、外界や無意識とやり取りができるようになる
自我があることで、自分の意見を伝えたり、他者の話聴いたり、外部の刺激に反応することができる
人や社会と共生するために、社会的生活に必須なもの

自己(self):
意識と無意識の両方を含んだこころ全体の中心
世界に向かって開かれたこころ
ユングは(自己とは何か)と問われたとき、
「ここにおられる、すべての人、みなさんが私の自己です。」と答えたという
ユングの提唱する自己は、他者も含めた全体、加えて物質をも含む世界全体(宇宙全体)(梵我一如の梵(ブラフマン)へ通じているのかも)
生まれた瞬間は、自己(self)で生きている


https://ieji.org/glossary/carl-jungより引用


Day5を迎えた朝(am5:30)も、瞑想配信をしていたのだが、途方もない不快感と共に在り、坐っているのに蠢き出すなにかを抑えようと必死でコントロールしようと、鍛錬の時間だった。

なんの心身の用意もできていないような自我(ego)に焦点が当たった状態で始まった、Day5。

しかし、LAPを終え、自己(self)と自我(ego)がなんたるかが腹落ちしてきたタイミングでは、40-50分ほど、考えに気を取られながら、呼吸やマントラに意識を向け続ける瞑想(鍛錬の時間)を過ごせるようになった。

以下にLAP Day5を経ながら体験している、今ここを綴っておきたいと思う。

agendaとしては、以下。

1.セルフを感じるワーク
2.セルフを生きる時間
3.全体対話


このagendaの中で、言及したいところは「2.セルフを生きる時間」で実施した、「無目的な散歩ワーク」。

大切なあなたは、普段「無目的に散歩する」ことをしているだろうか。
わたしは、1歳の娘と天気の良い日に歩くくらいだったが、わたしだけのために「無目的に行きたいと感じるがままに行く」ということは、ほとんどしていなかったことに気付かされた。
からだやこころの感じるがままに、セルフ(自己:self)で散歩してみると、得たものがたくさんあった。

LAPの中で、2回散歩ワークをしたのだが、

1回目(30分):感じるがままに向かい、雪解け水のうつくしさに見惚れる
2回目(1時間ちょっと):感じるがままに向かった先で、暖かさ、日当たりのいいところに導かれてゆく、散歩冒頭で、溶けかけた雪解けの氷の下を雪解け水が流れてゆき、泡の花がうつくしく生まれる瞬間に見惚れる

こんな時間を過ごしていた。
この日は、本当に偶然にも暖かな春の陽気に包まれた日で、寒さをいつもたずさえている、山形県で1時間半散歩しても苦にはならなかった。
(もちろん、寒い笑 手はかじかんで、木の枝みたいに乾燥した)

雪解け水のうつくしさにこんなにも心惹かれるじぶんが居るとは、全然想像もしていなかったのだけど、ふと思い起こしてみると、保育園か小学校低学年〜9歳くらいまでの帰り道の通学路は、こんなことばっかり感じて、何時も下を向きながら、立ち止まってはうつくしいものに心を傾けている、そんな子どもだったなあと感じている。

学校から家に帰る、という目的はある帰路だったのだけど、実質家に帰れるかはどうでもよくて、ただただ「セルフ(自己)」が感じるがままに行きたい方向に身を委ねて、歩けている、そんな時間だったと思い起こす。

こうして、「セルフ(自己)を生きる」を感じた時間を終えてから、40-50分考え事に苛まれながら、快でない、修行であり、鍛錬だと感じる瞑想をした。
その日の朝は、不快感と共にあることに、叫び出したくなるほどだったが、その日の夜「セルフ(自己)を生きる」を知ったわたしは、此の不快を愉しんですらいた。

ものすごい自我(エゴ)を抱えて、「無目的な散歩ワーク」に参加できたからこそ、妙な腹落ち感に納得していた。

そして、ここから先、
「どうやって、自己(セルフ)と自我(エゴ)のここちよい調和を実現して生きるか」が大切な問いとして湧き起こってきた。

わたしは、
【あるがままのいのちを愛す】
【誰もが、あるがまま輝き生きる場を創る】を人生のテーマ(命のお題)として、生きている。

この言葉たちは、自己(私のセルフであり、他者であり、世界宇宙全体)が、いのちの声であるといつの間にやら知っているようで、しっくり感のある言葉をあてられてからは、ずっとこの言葉たちと共に生きている実感がある。

最終的に私が、(ああ、自己(セルフ)で生きてるなあ)と感じるのは、これらの命のお題が瞬間瞬間で実現しているのを目の当たりにするときだろう。

ユングは、人生には物質的な目標を達成するだけではない、スピリチュアルな目的があると考えていた。
彼は自分の心理学を「科学」と位置づけつつも、宗教の神秘的核心には、彼の主張した個別化(indi­vidua­tion)

-それぞれの人が生まれつき持っている秘められた可能性を見つけて実現させること-
を行なうプロセスが備わっていると考え、「宗教的な癒やし」を否定せず、一定の敬意を払っていたという。

今のわたしに起きようとしているのは、「こころの統合」であり、生まれ持つ眠っていた個性が花開く(個性化)なのかもしれない。

「個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。」

『自我と無意識』(C.G.ユング 松代洋一・渡辺学訳 第三文明

個性化が進む上で、自己の器(身体)が感じる微細な感覚を見落とさず、取りこぼさずに、感じ取れるように、瞑想とジャーナリングへの向き合い方をもう少し丁寧にしてみたいと思う。

昨日から実践している、「活元運動」もからだとこころの微細な動きに耳を澄ます、とてもいいツールになりそうだ。


▼以下、本記事作成時に参照させていただきました。

https://ieji.org/glossary/carl-jung


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otoki(おとき) | あるがまま、輝き生きる人のためのライフコーチ
【誰もが、あるがまま、輝き生きる社会を創りたい】この想いでLMU(エルム)の開発を続けています。もし共感いただけたら、サポートいただけると嬉しいです! いただいたサポートはLMU(エルム)の開発費に使わせていただきます!

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