子どもと絡むのが苦手な先生だった話。

こんにちは、ひすとりです。
今日は、教員をやっているときに自覚していなかった「子どもとのスキンシップが苦手な特性」をふりかえる回。

この記事を書いている人:
元中学校・高校の教師。教育改革や職場改革に奔走するも、心身不調により休職→転勤→退職。転職して教育情報の関連業務に就いています。
自分の経験や考え、働き方や生き方に関する情報を記します。

■子ども特有の絡みが苦手な特性アリ。

大人の反応を確かめるように、イタズラしてきたり、わざと強い言葉を使って怒らせてみたり。

そういう子ども特有の絡みが、かなり苦手だ。

もちろん「子ども」と一括りにするのは乱暴で、一部の子どもではある。
でも教師をしていたときは、一度に大勢の子どもと対峙する訳で、その一部である子どもが、結果的には大勢いるのである。(伝わりますかね)

どうしてもそういう「お試し行動」を受け流せなくて、
なんなら私に対する信号なんじゃないかとか考えちゃったりして、
心の正面から殴られるような感覚になるのである。

■子どもっぽいものが苦手なのは、無意識の羨望。

教師をやっていた当時は、そういう感覚を持つ自体やっちゃいけないことだと思っていた。だって教師なんだもん。そんなことを言っていたら、この職なんて続けられないよ?って。

でも、適応障害になったりして、結局教師を辞めてようやくわかった。
私自身が本当は、もっと子どもっぽくして誰かに頼りたい人間だったんだ。

カウンセリングを受けたりしていくうちに、子供っぽいものが苦手で、なんならイライラしてしまうという特性を紐解いてもらった。

幼少期の忙しい家庭環境も相まって、昔から空気をよんで、中和する役割を担って生きてきた。だから、子どもっぽい時間を人より少なくしてきたんだとか。

だから、羨ましいのだ。
そういう子どもたちが。

大人にどう思われるか、正解は何か。

行動原理の中心が、他人の感情だった。

それにしても、こんな特性があるのによく教師続けてたな(笑)
いや、本当によく頑張ったな自分。
労わってあげたいですね。

そんなわけで今はかなーり遅くなった「子ども時代」練習中です
好きなことをやるし、相手の要望にはとらわれずに「自分」を持つ。
これがなかなか難しい。ちょっとずつ、自然体を目指していきます。

もし、共感してもらえる方がいましたら嬉しいです。


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