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#5 ミヒャエル・エンデ『モモ』|読書ノート

ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波文庫、1974)

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主人公の少女モモは貧しくとも友人の話に耳を傾け、その人に自信をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ。ある日、イタリア・ローマを思わせるとある街に現れた「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれてしまい、皆の心から余裕が消えてしまう。
モモは、奪われた時間を取り戻す冒険に出ていき……

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「時間」とは生活そのものなのだ

主人公のモモは、「自分の時間」を何よりも大切にする女の子。
親はおらず、一人円型広場というところで暮らす。現代日本でぬくぬく暮らすわたしから見ると、なかなか生きるのが大変そうな少女である。なのに、彼女は全く困難に感じてはいないのだ。

彼女にとって、本当に幸せな時間が円形劇場に流れていた。
空想の翼を永遠と広げ、他者と語り合いじっと人の話を聴き感情に寄り添う。
人間だけができる全てを楽しむ彼女は、ある意味、究極に人間らしいかもしれない。

死んだ時間を餌にして生きる灰色の男たちは、人間を奴隷にし時間を奪う。しかし、その餌食である人間は、時間を「貯蓄している」つもりになっている。みんな死んだように生き、誰も笑っていない。怒りっぽく、ガチャガチャとした騒がしさで溢れている。


現代の私たちにどこか当てはまる、というかかなりそのまんまな状況かもしれない。時間がないない、と嘆き、できる限り効率化した先に待っているのは次の効率化である。私たちは、そういう「生活」を選択しているからこそ「時間が足りない」と感じるのかもしれない。

「時間って音楽みたいなものなの」

モモのセリフだ。

このシーンから想像したこと。
その「時間」は、静かに自分の「今」に想いをめぐらせてはじめてその姿を捉えることができると解釈した。物語にも登場した、息を飲むほど美しく儚い「時間の花」は音楽とともにあった。私たちは普段、その音楽が流れていることにすら気づいていない。


モモは孤独になったとき、この歌に息が詰まりそうになったシーンがあった。人は、一人では生きられない。その美しい時間は他者と共有してこそ相応のものになるのかもしれない。


私の「時間の花」はどんな色なのだろう。どんな色でも、それは美しく掛け替えのないものであることを自分は感じ取れているだろうか。

「今のこの時間、何なの?」と怒りっぽく心がざわざわしている瞬間、私はきっと灰色の男たちに死んだ時間を供給しているのかもしれない。

ベッポの涙

モモの親友であり掃除夫のベッポがモモを救うために、自ら死んだ時間を選択した。その後やつれにやつれて、モモがどんなに声をかけても、猛烈に効率化だけを考えて掃除をし続ける彼は気づくことができなかった。

モモが時間を全て取り戻し彼の後ろに現れた時、「ああ十万時間が貯め終わったのかもしれない」と立ち尽くして泣いていて、私も涙を止められなかった。

今の私たちが、そして未来の誰かがきっと同じように涙を流す時が来るのかな。
怖くて苦しい気持ちになるけれど、エンデは同時に人間の豊かさへの底知れぬ力を信じているのではないかとも感じた。だって、最後のあとがきで「これは過去の話でもあり未来の話でもあるんだ」って言っていたもの。それはきっと、モモのような人間の人間らしさを信じているからこそのハッピーエンドなんじゃないかって。

とにかく、彼の作品は素晴らしい。

人間の素晴らしさを味わい尽くす作品。

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