正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517年6月18日 - 1593年2月6日)は、日本の第106代天皇(在位:1557年10月27日 - 1586年12月17日)。後奈良天皇の甥にあたり、戦国時代から安土桃山時代にかけての混乱期に即位しました。織田信長や豊臣秀吉の時代に天皇として皇室の地位を維持し、皇室再興の基礎を築きました。 生涯と出身 生年: 永正14年(1517年)6月18日 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 方仁親王(後柏原天皇の皇子) 母: 広橋仲光
後奈良天皇(ごならてんのう、1497年1月26日 - 1557年9月27日)は、日本の第105代天皇(在位:1526年 - 1557年)です。後柏原天皇の第一皇子で、戦国時代の最中に即位し、皇室の存続に尽力しました。 生涯と出身 生年: 明応5年(1497年)1月26日 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 後柏原天皇 母: 三条西実隆の娘・藤原尚子 経歴 即位まで 戦国時代に生まれた後奈良天皇は、幼少期から困難な環境にありました。父である後柏原天皇の治世下
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、1464年11月19日 - 1526年5月19日)は、日本の第104代天皇(在位:1500年 - 1526年)です。後土御門天皇の第一皇子で、戦乱や財政難が続く困難な時代に皇位を継承しました。 生涯と出身 生年: 寛正5年(1464年)11月19日 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 後土御門天皇 母: 三条公雅の娘・藤原政子 経歴 即位まで 後柏原天皇は、室町時代の後期に生まれました。父・後土御門天皇の治世中、応仁の乱が
後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、1442年8月3日 - 1500年10月21日)は、日本の第103代天皇(在位:1464年 - 1500年)です。後花園天皇の第一皇子で、室町時代中期の在位中には応仁の乱をはじめとする内乱や災害が続き、混乱の時代を経験しました。 生涯と出身 生年: 文安4年(1442年)8月3日 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 後花園天皇 母: 庭田通世の娘・通子 経歴 即位 寛正5年(1464年)、父・後花園天皇から譲位を受けて即位
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日 - 1471年1月18日)は、日本の第102代天皇(在位:1428年 - 1464年)です。称光天皇が後継者を残さず崩御したため、後小松天皇の弟である伏見宮貞成親王の第一王子として皇位を継承し、持明院統から皇位を継いだ初の天皇となりました。後花園天皇の即位により、皇統の分岐が一時的に解消されました。 生涯と出身 生年: 応永26年(1419年)7月10日 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 伏見宮貞成親王 母
称光天皇(しょうこうてんのう、1401年5月12日 - 1428年8月30日)は、日本の第101代天皇で、南北朝統一後の皇統を継承しました。在位は1412年から1428年までで、後小松天皇の第一皇子として、室町時代の混乱期に皇位に就きました。健康状態が良くなかったとされ、在位期間中に後継者を残すことなく崩御しました。 生涯と出身 生年: 応永8年(1401年) 出身地: 山城国(現在の京都府) 父: 後小松天皇 母: 藤原(西園寺)成子 経歴 即位 応永19年(
後小松天皇(ごこまつてんのう)は、日本の第100代天皇で、南北朝統一後初の天皇でもあります。幼少で即位し、在位中の統治は形式的なものに限られ、実権は室町幕府が握っていた時代の象徴的な天皇とされています。 生涯と出身 出身地: 山城国(現在の京都府) 生年: 弘和3年/永徳3年(1377年) 父は第98代・後円融天皇、母は帥典侍・藤原(大炊御門経子)であり、名は幹仁(もとひと)とされます。 経歴 即位と背景 明徳3年(1392年)、わずか10代の頃に父・後円融天皇の
後円融天皇(ごえんゆうてんのう)は、日本の第98代天皇で、南北朝時代の混乱が終結し、明徳の和約によって南北朝が統一された直後に在位した天皇です。室町幕府の影響が強くなっていた時代に即位し、天皇家の権威が制限されていた中でも、その存在が象徴的な意味を持つ天皇でした。 出身地 山城国(現在の京都府) 応安4年/建徳2年(1371年)に、山城国で誕生しました。父は第97代天皇の後小松天皇です。 経歴 即位と治世 後円融天皇は応永元年(1394年)、父・後小松天皇から譲位を
後光厳天皇(ごこうごんてんのう,1338年 - 1374年)は、日本の第4代北朝天皇(在位:1352年 - 1371年)で、南北朝時代の動乱の中で即位した天皇です。本名は益仁(ますひと)親王で、父は光厳天皇、母は藤原為子です。後光厳天皇は南北朝の対立が激化する時期に在位し、北朝の権威を守るために努力しました。 1351年、北朝の内紛である「観応の擾乱」の影響を受け、崇光天皇が廃位されると、益仁親王が後光厳天皇として即位しました。しかし1352年、南朝の勢力が京都を制圧し、後
崇光天皇(すこうてんのう,1334年 - 1398年)は、日本の第3代北朝天皇(在位:1348年 - 1351年)です。本名は弥仁(いやひと)親王で、父は光厳天皇、母は勧修寺経俊の娘です。崇光天皇は南北朝時代の複雑な政治状況の中で、足利尊氏の支持を受けて即位しました。 1348年に光明天皇が譲位すると、崇光天皇は北朝の天皇として即位し、南朝の後村上天皇に対抗しました。しかし、在位中も南朝との対立は続き、さらに足利尊氏と弟の足利直義(ただよし)との間で内紛が起こり、政治は混乱
光明天皇(こうみょうてんのう,1322年 - 1380年)は、日本の第2代北朝天皇(在位:1336年 - 1348年)で、北朝方の天皇として足利尊氏の支持を受けた人物です。彼の在位は、南北朝時代における複雑な政治状況や南朝との対立の中でのものでした。 光明天皇の本名は豊仁(とよひと)親王で、父は伏見天皇、母は西園寺寧子です。南朝の正統性を主張する後醍醐天皇による建武の新政が失敗した後、北朝の天皇として擁立されました。足利尊氏は、後醍醐天皇から独立して自らの政権を確立するため
光厳天皇(こうごんてんのう、1313年 – 1364年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての日本の天皇で、北朝の初代天皇です。在位期間は1331年から1333年までで、持明院統の後伏見天皇の皇子として生まれました。彼は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対抗して倒幕を図る中で即位し、鎌倉幕府および幕府側の貴族や武士によって擁立されました。 光厳天皇の即位は、倒幕の意図をもつ後醍醐天皇に対抗するためのものでしたが、1333年に後醍醐天皇が復権し鎌倉幕府が滅亡したため、光厳天皇は退位さ
後亀山天皇(ごかめやまてんのう、生年不詳 – 1424年)は、南北朝時代末期から室町時代初期にかけての南朝の最後の天皇で、在位期間は1383年から1392年まででした。後亀山天皇は、長慶天皇の弟であり、南朝第4代の天皇として即位しました。彼の治世中に南北朝の対立が収束し、日本は再び形式上の統一を果たしました。 1383年に即位した後亀山天皇は、吉野を拠点に南朝の正統性を主張し続けましたが、南朝側の勢力は次第に衰退し、北朝および室町幕府が全国的な支配を確立しつつありました。こ
長慶天皇(ちょうけいてんのう、生年不詳 – 1394年)は、南北朝時代に南朝の第3代天皇として即位した天皇で、在位期間は1368年から1383年まででした。長慶天皇は、後村上天皇の第一皇子で、父の死後に南朝を引き継ぎました。南朝はこの頃ますます勢力を弱め、北朝(室町幕府)の支配が日本各地に広がる中で、孤立しながらも皇位を守る厳しい状況が続きました。 長慶天皇の治世は、南朝と北朝の争いが続く中、南朝が劣勢に立たされ、幕府との戦いで支援勢力や領地を失う苦しい時期でした。彼は吉野
後村上天皇(ごむらかみてんのう、1328年 – 1368年)は、南北朝時代の日本の天皇で、南朝第2代の天皇です。彼は後醍醐天皇の皇子であり、父の後を継いで南朝を支えました。在位期間は1339年から1368年までで、南朝の中心地であった吉野(奈良県)での統治を行いました。 後村上天皇の治世は、北朝と南朝の間で激しい戦乱が続いた時期でした。彼は南朝の正統性を主張し、北朝(持明院統)およびその支持勢力である室町幕府に対抗しました。楠木正行や新田義興などの南朝の武将たちと共に戦い、
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年 – 1339年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての日本の天皇で、在位期間は1318年から1332年、そして一時的に京都へ復帰し1333年から1336年まででした。後醍醐天皇は、大覚寺統の系統に属し、朝廷内の権力を取り戻すべく積極的な改革を志した天皇として知られます。彼は鎌倉幕府に対抗して「建武の新政」と呼ばれる新しい政治体制を目指し、その後の南北朝時代の発端となる動きを起こしました。 後醍醐天皇は、鎌倉幕府の支配を打破して