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「優しさ」を履き違えるな。

「優しさには限界がある」


「きみの好きなタイプはどんな人?」

「うーん、そうね、"優しい人"かしら。」

「そうか、じゃあ彼なんていいじゃないか。彼は誰にでも分け隔てなく"優しい"と評判だよ。」

「そうね、たしかに彼は"優しい"わね。でもダメ。」

「どうして?」

「それくらい自分で考えなさいよ。」


女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます。

これは、夏目漱石の言葉だ。
多くの男たちが、ふむふむと鼻息を吐きながら共感できることだろう。
しかし、「女心」などという哲学に、正解は永遠にやってこない。

---※---

これは蛇足だが、

現代では、性別という壁がなくなりつつある。
「LGBT」という言葉は4つの性を表しているが、例えばひとえにゲイと言っても、
「男性の格好のまま、男性が好きな人」
「女性の格好をして、男性が好きな人」
「男性の格好をして、女性の格好をしている男性が好きな人」
「女性の格好をして、女性の格好をしている男性が好きな人」
など、多様なパターンがある。

これは「性癖」と言い換えてもいいくらいだ。
身体的に男女というものが存在しても、精神的には性別などなく、ただ個人があり、様々な性癖を持っている、というわけだ。
これが現代になって、「多様性」という言葉で議論されるようになったのは、文明発展に伴い、多くの人々が少数派の存在に気がついたからにすぎない。

つまり「女心」とは、「多様な個人の中に一定層存在する、恋愛において同じような感覚を持った人間の共通性癖」と言い換えられる。
「女心」という言葉を、全ての女性に共通する性癖として使っているわけではないことを頭に入れた上で、読んで頂ければ幸いである。

---※---

はじめの会話のように、恋愛において「優しい」とはポジティブな意味を持つ言葉だ。
恋愛においてだけでなく、「優しい」という言葉をかける時には、"良い"意味が込められている。

辞書では、「心温かく、思いやりがあること。または、おだやかでおとなしいこと。」とある。とても納得のいく定義だ。
果たして、"優しい"とはどんな時も"良い"意味を保つことができるのだろうか。
具体的な場面を想像してみよう。

《例》
「優しい」と評判のAとその恋人Bの会話

A:「友達のメアリーが彼氏に振られて落ち込んでいるみたいなんだ。話を聞きに行ってくるね。」

B:「ダメよ。傷心の女と2人で会うなんて。」

A:「彼女は唯一の親友なんだ。親友が辛い想いをしていたら、話を聞いてやるのが"優しさ"だろう。」

B:「じゃあ私はどうなるの、知らない女と2人で会いにいくなんて辛いわ。"優しさ"って言うなら私を1人にしないでよ。」

A:「うわああああああああああ」

ほらみろ、Aは発狂してしまうのだ。
Aはただ心の底から親友を思いやり、少しでも辛い気持ちを和らげる為に会いに行こうとした。
しかし、その選択をすることは恋人であるBを傷つけることになる。
それは"優しい"彼にとって許せないことだった。

思いやりは槍であり、一方向にしか向けられない。
だが向けるべき相手は必ずしも一方向にだけあるとは限らない。

Aはそのジレンマに耐えきれず、発狂してしまうのだ。

Bがさらに、
「他の人に親切にするのも見ていられない。それで他の人があなたを好きになったらどうするの?私にだけ"優しく"して。」

と言いだしたら終わりだ。
Aは自殺してしまうだろう。

ここでAが自殺しない為に、とることができる選択肢がある。
面倒な女Aを切り捨てることだ。

「申し訳ないが、君には付き合いきれない。君のことは大切だが、他にも大切な人はいる。君以外の人を思いやることがダメだと言うなら君とは別れるしかない。」

こうして振られてしまったBは、その友達にこう言うのだ。

「Aは最低な男だった。他の女を優先しようとした浮気者だ。"優しい"と評判だったのに、"冷たい"人だったわ。」

晴れてAは一部の人間にとって"優しい人"ではなく、"冷たい人"になる。
これはBという女が、人間として未熟だから仕方がないという話ではない。

もし仮に、世の中の人全てが"優しい人"であれば、思いやりは全方向を照らす暈(かさ)となり、世界は平和に包まれるだろう。
しかし現実がそうではないことは誰もが知っている事実だ。
"優しい"という言葉は、"優しくない"人間がいることで初めて成立しているのだ。

優しさの方向 (1)

…良い人か、それは、その言い方はあまり好きじゃないんだ。
だってそれって、自分にとって都合の良い人のことをそう呼んでいるだけのような気がするから。
すべての人にとって都合の良い人なんていないと思う。誰かの役に立っても他の誰かにとっては悪い人になっているかもしれないし…

これは、漫画「進撃の巨人」から引用した台詞だ。この言葉に言いたいことの全てが詰まっている。
ここでの"良い人"は"優しい人"とイコールだと考えてもらっていい。
ここまで長々と書いてきたことは、この台詞の意味を真に理解してもらうための前置きに過ぎない。

ここまで読んでくれたあなたには、女心に限らず、"優しさ"を向けられる場所には限界があるということを理解してもらえただろう。
それでは、本題に入ろうと思う。


「善人ほど損をする世界」


【"優しさ"を向けられる場所が限られているなら、どこに向けるべきなのか。】

これが今回、考えたいテーマだ。
なぜこんなことを考えなくてはいけないのか。
それは、この世が「善人ほど損をする世界」だからだ。
人はみな善人であるべきだが、善人であればあるほど損をしてしまう。
我々は時に善人でいることを諦めなければ、死んでしまうのだ。

これは決して世界を悲観しているわけではなく、事実を受け止め、より幸せに生きる術を見出そうという試みだ。

1つ例を挙げてみよう。

就職活動において、SPIという試験が多くの企業で採用されている。
多くの人は、対策テキストを勉強して試験に臨む。
しかし一方で、友達と大勢で一斉に開始し、協力して解く人がいる。
または、勉強のできる友達に代わりに解いてもらう人もいる。
さらには、回答集がネット上で販売され、それを購入する人もいる。
一人で勉強して取り組んだ人以外は、ルール違反をしている。

聞いた話によれば、
そういったルール違反が横行していることは企業側も知っているそうだ。これが黙認されているのは、代わりに解いてもらえる友人という人脈を得るコミュニケーション能力や回答を手に入れる情報収集能力があるということが、真面目に勉学に取り組むことと同じくらいのスキルとして認められるからだ、と。(諸説あり)

答えを知っている人間は、SPI対策などには1分たりとも時間を使わずに、企業研究や自己PRの方法を考えることができる。
答えを知らない人間が、答えを知っている人間に勝てるわけがないのだ。
こうして善人は損をする。
企業に対して、真面目にSPIを受けてやるという"優しさ"など向けたところで意味がないのだ。

就職活動では、SPIのみならず、学生時代のエピソードなども作り話を使う人がいる。学生時代遊んでばかりいた人も、架空の魅力的なエピソードを作り出し、あたかも貴重な体験をしたと騙るのだ。
往々にしてそんな学生はコミュニケーション能力が高く、採用される確率も上がる。
こんな事実を知ったうえでも、真面目に取り組む人は善人だと思う。
かつての自分であれば、そうしたかもしれない。
しかし、今の僕が当時に戻ったら、ルール違反を選ぶような気がしてしまう。

「自責思考」


就職活動の場合に戻るが、ルール違反をして採用された場合、ルール違反をせずに採用されなかった善人に対して悪を働いたことになる。
この罪悪感に耐えられる理由は一つ、【自責思考】だ。

僕は、自分に降りかかるたいていの不幸を、全て自分のせいだと思うようにしている。これが【自責思考】だ。
反対に、何でも他人のせいにするのは【他責思考】だ。

だからこそ、もし僕が不採用になったとすれば、それはルール違反をしてまで採用された人間のせいではなく、それを知らなかった、または知っていても実行しなかった自分のせいだと思う。
そして、それは他人に対しても同じであり、僕が採用されたのであれば、知らなかった、または実行しなかった他者がそれを自分のせいだと思う必要があると考えているからだ。

この思考法を取り入れてから、僕は善人でなくなったかもしれない。
これが、善人を傷つけていい理由になるのかと問われれば、そうは思わない。
しかし、他人に対して"優しさ"を振りまくよりも、"優しさ"の矛先をまず自分に向けて、責任とリスクを全て背負うことが、この弱肉強食の世界に抗う術なのだと信じている。

【自分自身が幸せでない者に、他者を幸せにはできない。】

これが僕の答えだ。
"優しさ"を向けられる場所が限られているのなら、まず自分に向ける。
何よりもまず自分が幸せであることを優先し、そうしてできたゆとりから初めて他者へ向ける"優しさ"が生まれる。
そしてその"優しさ"を自分の人生に必要だと思った人たちに向けていくのだ。

全ての人に"優しく"いるなど傲慢であり、それによって自分をすり減らす必要はない。

僕もかつては全ての人に優しくあろうとしていた。
学校の先生からはいい生徒、友達からはいい奴、親からはいい息子、彼女からはいい彼氏になれるようにこれまでの選択をしてきた。
しかしそれは、人に嫌われることを極端に恐れた小心者のなれの果てだった。
その先には自分の幸せもなければ、真の意味で他者に"優しさ"を向けることなどできないのだ。


「自信と優しさの関係」


多くの"優しい人"に共通していることの一つとして、"自信がない"ことがある。

我々が他者に優しくあろうとするのは、優しくすることで少しでも自分を良い人間だと認識してほしいからだ。
そうすることで、敵を作らず味方を増やすことができる。
集団で生きる人間にとってはとても重要なことだ。
ここでなぜ、自信という言葉が出てくるのか考えてほしい。

外見の容姿がとてもいい人がいたとする。
その人は自分の容姿に自信を持っており、それだけで周りに人が集まることを実際の体験を通して知っている。
その為、何をせずとも人から好かれるその人は、周囲に"優しさ"を振りまく必要がないのだ。

RPGゲーム風に例えるとこうだ。

≪A≫高学歴イケメン
〔ステータス〕【容姿】100【優しさ】50【学力】50
〔スキル〕勉強

≪B≫"良い人"と言われる人
〔ステータス〕【容姿】50【優しさ】100【学力】50
〔スキル〕超親切

ステータスは生まれ持ったもので変わらないが、スキルは努力次第で得ることが出来る。
ほとんどの人はBのように、スキルとして他者に親切にすることで、好かれようとする。
生まれ持った容姿がある人はわざわざ親切をしなくとも人から好かれる。さらに勉強をすることで、Aのような高学歴イケメンが生まれたりもする。

≪C≫面白い人
〔ステータス〕【容姿】20【優しさ】20【学力】20
〔スキル〕人を笑わせる

Ⅽのように、ステータスが劣っていてもスキル一つで他者から人気者になることだってできる。
人から好かれる、という目的を達せられるのであれば、必ずしも"優しさ"にこだわる必要はないのだ。
しかし、多くのスキルは獲得するのが難しいため、誰でも簡単に得られる「親切」を選ぶことになる。
たとえ偽善だとしても、他者に親切にして、気遣いを忘れなければ、"優しい人"だと魅せることが出来る。

つまり、"優しい人"というのは、突出したステータスやスキルが無いことで自分に自信を持てず、せめて優しくなくてはいけない、という焦燥感から人に優しくなるのだ。

これが、人に嫌われることを極端に恐れた小心者のなれの果てであり、真の意味で他者に"優しさ"を向けることができないということだ。


「善悪を決めるのは何か」


"優しい"ことが必ずしも正しいとは限らない。
誰かに優しくすれば、どこかで傷つく人がいるかもしれない。
すべての人に優しい人など存在せず、優しさを向ける相手は選ばなければならない。

自分自身への自信の無さから手を出してしまう軽率な親切で得られる安心は、ドラッグのようなものだ。
多くの人に優しい人だと認識され、良い人だと言われる快楽に溺れる。
いつしか、優しい人でいなければならないという焦燥感に取り憑かれ、自分の幸せすらままならない状態で"良いこと"をし続ける。
"良いこと"をし続けることは善人と言えるだろう。
しかし、この世界ではそんな善人こそが損をしてしまう。
そんな善人に不幸が降りかかったとき、過去の親切に後悔し、優しさを向けたはずの誰かを責めることになる。

友人の怪しい頼みを親切心で聞いたところ、それが詐欺で学生にして数十万円の借金を背負わされ、返済のために大学を辞めて働くことになったとしたら?
この不幸は、詐欺師のせいか、自分のせいか。
友人を信用しすぎた、内容をしっかりと把握しなかった、悪い人間を見抜くことが出来なかった。
そうやって自分のせいにすることが出来るだろうか。
これは僕の友達の実話だ。
少なくとも彼がその詐欺師に恨み節を垂れているところは見たことがない。

これは騙されるほうが悪いから、騙してもいいという話ではない。
就職活動でのルール違反と詐欺の違いは何か。
そんなことは自分で決めることなのだ。
善悪の基準など、人に言われて選ぶことじゃない。
詐欺をするのは悪だからしない、就職活動でのルール違反は多少しても構わない。この感覚はそれぞれのものだ。
自分の幸せの為なら詐欺でもできる人がいる。
自分の幸せに反するとしても、ルールは必ず厳守する人もいる。
自分が快楽を得る為なら、法律を破って大麻を吸う人がいる。
うつ病やてんかんへの医療効果が実証されているにもかかわらず、法律だから大麻治療をできない患者もいる。

善悪を決めるのは法律ではなく自分自身だ。
秩序として、ルール違反への罰は当然存在するが、そのリスクを認識したうえで自身の善悪を決め、自分に優しくすればいい。
なによりもまず自分の幸せを考える。
その時、自分の幸せが他人の不幸の上にしか成り立たないというのなら、罪悪感にまみれたまま本当に幸せを享受できるのか、はたまた罪悪感を感じるまでもないことなのか、自分で考える。

自分が呪いに殺された時も、そうやって祖父のせいにするのか。

これは、漫画「呪術廻戦」にて、呪い=敵と戦う理由を聞かれ「そういう(祖父からの人をできるだけ多く救えという)遺言なんでね」と答えた主人公に対して、学長が言った言葉だ。
他人に言われたことだとしても、それに従うか従わないかを決めるのは自分であり、自分で決めたのだという確固たる意志を持っていなければ、いざというときに自責できないということだ。

お前は間違ってない。やりたきゃやれ。
お前と俺達との判断の相違は経験則に基づくものだ。
だがな…そんなもんはアテにしなくていい、選べ…
自分を信じるか、俺やコイツら、調査兵団を信じるかだ。
俺にはわからない、ずっとそうだ…自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…
…結果は誰にもわからなかった…
だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。

漫画「進撃の巨人」から再び引用したが、これも自分で選ぶことの重要性を表したシーンだ。
この世界で生きるには、自分で選び、結果がどうあれ、自分の責任にするしかない。
すべての善悪を決めるのは自分なのだ。

「まとめ」


優しさは暈でなく槍だ。
どうあがいても優しくできる人は限られる。
だから、誰にでも優しくあろうとするのはやめる。
まず第一に優しくするのは自分であり、自分の幸せのために全力を尽くす。
自分の幸せと他者への親切が一致するなら、それほど良いことはない。
逆に、他者に不幸が被る場合はその不幸が自身の悪に当てはまるかを考える。
自身の中で悪ならば、他の方法を探す。
自身の中で悪でないならば、他人にとやかく言われようがやる。
そしてまず自分が幸せになる。
すべての結果を自責思考で受け入れる。
その時はじめて、他者に対して真の意味で優しくなれる。

これが「優しさ」だ。
自分をすり減らしてまで、自分を偽ってまで、
優しくなる必要はない。


こんなこと、言われなくてもわかってるはずだ。
いつだって女心を掴むのは、
「良い奴」じゃなく「自信のある奴」なのだから。

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