パノプティコンの死角
パノプティコン(panopticon)とは、「あまねく(pan)」「見る(optic)」というギリシャ語の語源から「一望監視施設」と呼ばれる監獄施設です。18世紀に功利主義のベンサムが提唱した建築プランであり、現在ではフーコーが権力一般を説明するモデルとして用いたことで有名です。
下記、サイトを参照↓
「(゚Д゚;)…いきなりどぉしたぁ⁉」と言われそうですが、今回は「自己監視すら突き抜ける想い」というテーマで書いてみようと思います。
そもそも、なぜ私が「パノプティコン」を知ったのか?と言いますと、大学の講義に登場したからです(分かりやすいw)。
この「パノプティコン」ですが、二人の人物が概念の象徴として扱っているので、説明がややこしいのですが、私が掘り下げたい部分のみを、引用や参考文献を交えつつ紹介しようと思うので、そこには当然「偏り」が存在します。
ですから、記事を鵜呑みにするのではなく、書いてあることから、さらに思考を発展させていただけると、読み甲斐があるかもしれません。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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ベンサムの功利主義
ベンサムとは人物名です。
「功利主義とは」=人間は快楽と苦痛を計算して行動する存在であることを前提に、社会全体の幸福量が最大になる(最大多数の最大幸福)ように法律を作るべきと考えた思想
上記の思想を説明するのに用いたのが、「パノプティコン」という監獄の建築モデルです。(面白いのは、ベンサムが建築とは無関係な学問に長けた人物というコト)
ベンサムは「刑罰論」も功利主義の観点から述べており、「悪い行いには刑罰を処す」という法律が存在することで、犯罪を未然に防ぐ効果があり、被害者を減らし、加害者も更生の機会を得る。これは「社会の最大幸福に結びつく」のだとしています。
…ご理解いただけるでしょうか?
私は自分で書いてて混乱しそうです(笑)。
要するに、「法律」と「刑罰」というのは、社会にとって非常に貢献度の高い重要な要素である、というニュアンスで捉えてもらえればOKです。
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フーコーの権力論
フーコーとは人物名です。
フーコーはパノプティコンを権力一般を説明するモデルとして用いました。そのモデルは1975年に刊行された『監獄の誕生』において提示されました。
簡単にいえば、『監獄の誕生』はフランス革命前後の数十年における処罰メカニズムの近代化に関する分析です。現在、この書物はフーコーの権力論を理解する上で、最も重要な書物の一つと位置づけられています。
…全然、簡単じゃない…(ノД`)・゜・。
私は素人ではありますが、頑張って素人なりにまとめてみます(笑)。
フランス革命前は、王族が自らの権威を示すために、民衆に対して刑罰を下す際、身体刑が中心でした。
これに対し、フランス革命後の近代において、拘禁刑が主流となり、この流れから「監獄」が誕生することとなります。
身体刑から拘禁刑に移り変わることで、「身体と精神の向き合うベクトル」が、「身体を調教することで人間の精神を支配する(身体刑)」ことから「精神を規制し、道徳的な主体とすることで、身体をコントロールする(拘禁刑)」ことに変化をもたらしました(参照:中山元『フーコー入門』139p~)。
大事な点からいえば、絶対王政の見せる権力とは異なった権力がフランス革命以降に誕生しますが、これは監獄に限らず、近代現代社会に存在する権力形態であったことです。これは「規制権力」といわれます。(リベラルアーツガイドより引用)
…またややこしい表現、キターーー(・∀・)ーーーー!!
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ここまでの話を繋げていきます。
パノプティコンの特徴は…
・中央に監視塔があり、その周辺を円形に配置された独房があること
・中央に建てられた監視塔からは、囚人に見られることなくすべての囚人を監視することができる
パノプティコンに作用する権力は…
・中央の監視塔に、監視者は常駐する必要がない
・なぜならば、監視されている可能性があるだけで、囚人の内部には第二の監視者が生まれる
・その結果、「監視される囚人の内部にいる監視者」という構造が生まれる
・言い換えれば、それは自己の欲望する主体を監視する構造である
私なりに要約すると、「功利主義の”社会全体の最大幸福の追求”という観点で法律や規制の重要性を鑑みるに、現代の規制権力は、社会全体に浸透しており、私たちは”社会という監視者”によって、収監された囚人のように日々の生活を過ごしている」ということです。
つまり、私の考える「パノプティコン」とは「監獄」ではなく「現代社会そのもの」であると考えています。
このことを踏まえた上で、冒頭に掲げた「自己監視すら突き抜ける想い」というテーマに立ち返りたいと思います。
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「社会」という「パノプティコン」
私たちは、常に誰かの目を意識して生きています。
この意識が、社会倫理を生み出し、犯罪を抑制していることは事実でしょう。
しかし、同時に私たちは自らの中に「監視者」を作りだし、社会に適合するための行動を無意識に選択もしています。
これらは、「社会全体の最大幸福の追求」という見えない力によって制限が掛けられた意識ではないかと私は感じています。
もし、「想い=念い(おもい)」に、この無意識の制限を突き抜ける力があるのなら、私たちは一段階上の「個人としての自由」と「人としての社会環境」に辿り着けるのではないでしょうか?
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「規制権力」に対して、私たちはあまりにも従順過ぎではないでしょうか?
私たちは、自身の中に存在する「第2の監視者」に媚び諂っていないでしょうか?
私たちの…あなたの「念い(おもい)」に枷をはめているのは、あなた自身ではないですか?
社会監視も自己監視も突き抜けて、「念いの力」で、「規制権力」から抜け出し、今以上に誰もが最大幸福を実現できる社会を私たちで作って行きましょう!!
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
終始、文章の構成が歪であったことは、申し訳ないと思っていますが、「想いの力でアップグレードしよう」という部分を感じ取っていただければ嬉しく思います。
それでは、今回の投稿は以上です。