言葉と心は裏腹だったりする話。
毎回、余談から入って申し訳ないと思うのですが、「凡人」という言葉の境界線を決めてほしいと思っています。
たまに、「私は凡人ですから…」という言葉を耳にします。
つまりは、自分の上には「天才」という明らかに「凡人」とは一線を画した存在がいて、自分はそれ以下である的なニュアンスだと思われます。
ですが、誠に申し訳ないのですが、その「凡人」と語る方の多くは、「天才」と接する機会があって、自らを遜(へりくだ)って、線引きをするのだと思うのですが、その領域に辿り着けない人間は、自分のことを、どのように呼称すれば良いのでしょう?
一流大学卒、上場企業勤務、高所得、コミュニティにおける上流階級、にも関わらず「凡人」がいるのだとしたら、自分は…?
「凡人以下」では、まだ足りない。ゆえに「ミジンコ」だとか「ゴミムシ」などと過剰に遜ってしまう…私はそういった人間だったりします。
このような「凡人以下」という表現は、ほとんどの方には「ネガティブ」に聞こえるんだと思います。むしろ、好きではない言葉でしょう。
今回は、「謝罪の回」になりそうなくらい、ホントに申し訳なく思うのですが、言葉と気持ちは裏腹だったりするものです。
面倒な性格なのですが、私にとって、遜った呼称というのは、上昇志向の表れだったりするのです。
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「いいね!」は、ポジティブ?ネガティブ?
誰かのアクションに対して「いいね!」。SNSではよくある一連のサイクルですよね。
もしかしたら、あなたも経験があるかもしれませんが、それホントに「いいね!」と思って押しています?(恐ろしいこと言いだしたw)
中には、妬み嫉み、やっかみといったネガティブな気持ちを隠して、「いいね!」を押している人がいるんじゃないか…?などと考えていた時期があったので、私のSNSデビューは、周回遅れでスタートしました(笑)。
今回の記事のそもそものきっかけは、私が「大丈夫!という人ほど大丈夫じゃない説」を支持しているからです。
誰にも打ち明けられない悩みを抱え、人に迷惑になるからと「大丈夫」と言ってしまう人、結構いると思っています。
一見ポジティブに聞こえる言葉の裏に、ネガティブが潜んでいることがある、この意見には、同意いただけるでしょうか?
そこから、「では、逆にネガティブな言葉の裏には、ポジティブな心が存在することもあるのでは?」と思い、記事にしながら思案しています。
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「挫折」という言葉に隠された熱量
「挫折」という言葉の裏には、「野心」といっても良い程の心に燻る炎に抗う熱量があると、私は思っています。
なぜなら、「挫折」を認めなければ、「自分が挫折した」とは他人に言えないと思うからです。
人間誰しも、他人に弱みは見せられないと思うのが自然です。にも拘らず「挫折した」と語るその裏には、「この教訓を糧に私は成長した」という強い想いが、きっとあるはずです。
これはまさに、「ネガティブな言葉に隠されたポジティブ」と呼べるのではないでしょうか?
だとするならば、求められるのは、「挫折を糧にする方法」です。これさえあれば、人は何度だって這い上がれるワケですから。
では、その方法の具体的な内容なのですが…ここは、本当に申し訳ないのですが、「事案と人によって違う」というのが正直なところだと思っています。
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心を楽にする万能薬は存在しない、それが私の見解です。
苦しい時、悲しい時、少しでも早く楽になりたいですよね(;´・ω・)。
でも、そんな奇跡は、滅多にないんです。乗り越えるしかないんです。
人間の心には、身体に備わっているのと同様の「自己治癒力」があると、私は信じています。
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ポジティブな言葉の裏にネガティブな心を抱えるより、ネガティブな言葉を使ってでもポジティブな心を保つ方が、たぶん、心には優しい気がしているのですが、周囲の理解が得られるかは微妙ですね( ̄▽ ̄;)。
私は、他人が言葉を発するときには、その裏を視るように気を配っています。
それは、人には理性があるゆえに、言葉と心が裏腹になることが往々にしてあるからです。
言葉と心、二つの力を分けて捉えると、自己理解や人間関係は深められるのではないでしょうか?
ということで、今回の投稿は以上です。