全部正解
言葉には力があります。
正解のように感じてしまう言葉というのは、共感でき、説得力があります。
このような言葉に出会うと、人間は考える努力を怠ってしまいがちです。
「認知的不協和」といって、人間は答えがない問題などを延々と考え続けることにストレスを感じます。
ですから、一刻も早く解答したいという思いから「きっとこういうことだろう…」と正解のように感じる言葉と出会ってしまうと、それ以降の思考を停止してしまう可能性が非常に高いです。
今回は、改めて「言葉の力」について考えてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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noteで投稿するにあたり、様々な情報を検索したり、自らの経験を述べたりすることで説得力のある文章を作り上げることは、あなたの記事のファンを増やす要因になります。
ですが、気をつけなければならないのは、必ずしもあなたの価値観が真理ではないということです。
「○○という本に書いてあったから、きっと正しいに違いない」
「ネットで検索したらこう書いてあったから、きっと正しいに違いない」
こういう考えに陥ってしまうと、心の中で「思考の余白」がなくなってしまい、想像力の低下が起こるのではないでしょうか?
すぐに答えが出ないのは、多くの人にとってストレスかもしれませんが、答えがない問題に、自分なりの答えを模索し続ける、という行為に魅力を感じる人もまた多いのかもしれません。
それは「認知的不協和」と同じく、人には「知的探究心」というものが存在するからです。
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…ですが、さらに言えば「群衆心理」もあるので、自分だけが周囲と違う答えだと、せっかく考え抜いた答えですら疑問視してしまいます。
それは、答えがひとつしかないという思いこみから起こるものなのではないでしょうか?
人生において、算数の問題のような明確な答えがある問題というのは、ほとんどありません。
何年経っても「あのとき正解だったのか…?」と考えつづけるような問題ばかりです。
人によって、または状況によって、あるいは時代によって、正解というものは形を変化させます。
唯一、形が変わらないもの、それが真理なのですが、真理というのはそう簡単にたどり着けるものではありません。
そこも、たどり着いた気になってしまっては、認知的不協和状態となり、ストレスから逃げる手段になってしまっているのかもしれません。
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このような疑問は、まるで回文のように、ぐるぐるといつまでも頭の中で消化しきれず悶々とする、まさにストレス要因かもしれませんが、こうなってしまうのは、人間だからです。
自分の存在を確かめるにはうってつけの行為であり、この行為にストレスだけでなく、知的探究心まで芽生えさせることができれば、自ずと追い求めてるうちは不可能であった真理に近づくのではないでしょうか?
もっとも、この投稿自体も私の価値観に過ぎず、真理には到底及ばないというのが現実なのですが、あなたにとって真理とは何でしょうか?
もし今、悩みがあるのなら、その悩みに正解はあるのでしょうか?
考えうる全てを考えたとしても、そこに正解はないかもしれません。
ですが、行動することによってその悩みが過去のものになるのであれば、逆説的ではありますが、その行為は正解であり、究極的には、どの選択肢を選んでも、行動したという事実こそが正解のトリガーだったと気づくようになるかもしれません。
…まるでとんちのようなこの文章も、もしかしたら真理の一つなのかもしれませんね( ̄▽ ̄;)。
あなたはどう感じますか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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